結城無二三(ゆうき むにぞう)

 (18..~1912(明治45).5.17)

幕末の風雲の最中、「一国一城の主」たらんと故郷甲府を出て江戸に旅立ち、医者修行、砲術修行、見廻組の厄介(幕臣以外の隊員の呼称)をへて、新選組で近藤勇の客分となった人物。見廻組の探索として水戸天狗党の最後にも立ち会った後、長州征伐、伊藤甲子太郎謀殺、鳥羽伏見の戦い等に参加。近藤勇率いる新撰組の最後の戦いとなった甲陽鎮撫隊には、砲術担当の軍監となり、鎮撫隊の背走後は近藤らとはぐれ大宮に潜伏。

近藤斬首の報を受け自殺を図るも果たせず友人の勧めもあって、沼津兵学校の付属小学校に入り、江原素六、赤松大三郎らから洋算、酪農といった新知識を学ぶ。勝海舟の命を受け伊豆大島へ派遣される際に、故郷で「大小切騒動」と呼ばれる地租改正反対の暴動が勃発。これを記に政府転覆を図らんと急ぎ帰郷するも、既に鎮圧されていることをしって帰農し身を固めることとなる。甲府の新知識人として評判を得るも、政府の民業圧迫の姿勢に反発し、人里離れた大積寺に新妻をつれて篭り、開拓農となる。

息子も生れた明治11年末、妻と共に急病に倒れ、赤子の乳を求めて泣く姿に苦悩するも体が動かない。思い余ってその時たまたま手にしていた中国語訳の聖書に書かれたエホバの神に一心に祈ると不思議なことに自身の熱が下がり、妻も復調し危機を脱した。その後、甲州布教に来たカナダメソジスト会の宣教師イビィ師と肝胆相照らす仲となり、明治12年4月6日に親子三人で洗礼を受け、伝道生活に入った。

明治13年単身上京して東洋英和学校に入り、語学、神学、論理学等を学び、卒業後、山中共古らと共に静岡、浜松での布教を行う。しかし教会内での権力闘争に巻き込まれ、失意の念を抱いて甲府から東山梨の千野、八幡に入り、膝組伝道と息子(禮一郎)の教育に献身することとなる。飯島信明、中沢徳兵衛ら有力な信者を得た伝道の成果は、日下部教会設立の基礎となった。イビィ師の再来日を受けて教職を辞し、明治26年3月に上京。本郷中央会堂での事業に尽力するも、中央会堂がイビィ師の手からミッションに引き渡されることになり失業。下宿屋、菓子屋なども上手くいかず、明治28年再び伝道師となり、飯島、中沢両氏の厚意から甲府での伝道を再開する。

明治33年、平岩愃保による辞職勧告を受け、再び大積寺の開墾地に篭る。経済苦の為、掌中の玉と可愛がっていた末娘を亡くす悲劇にも見舞われるが、息子(禮一郎)が妻帯し生活が安定するまではと、山中での過酷な生活を自らに課した。明治40年、妻帯し、新聞人としても大成した禮一郎に引き取られ、以後、禮一郎の仕事に伴い東京、大阪、東京と場所を移しながらも隠居生活を送り、明治45年5月17日に胃癌の為死去。墓は目の下に日下部教会、左は伝道を行った八幡村、右に生地の田中をのぞむことの出来る東山梨郡差出の磯の山上にある。


注目理由

「旧幕新撰組の結城無二三」が好きだったんです。世間の価値観からいうと「敗者」で「負け犬」なんでしょうが、息子の抱く感謝と尊敬の念に満ちたこの本を読んでいると本当にそうなのか、世の中に「勝者」と「敗者」が居るとしても、それを峻別するものが存在しうるのかと思わずにいられなかったんです。個人的には明治の世になって伝道生活や山中での厳しい農耕を続ける無二三が息子に語る話が印象的。24歳で甲斐新聞の主筆となって帰ってきた禮一郎に対し「おれは人からあきらめがよすぎると言って攻撃された。俺もそれを知らぬのではない。もっと一つの事に執着していたなら必ず成功していたと思う、それだから今お前に向かってもこれからの世の中はねばり強く行かねばだめだ、一つ捕まえたら決して離すなと言いたいのだが、おれはそうは言わぬ、成功するにはそのほうが利巧なやり方かもしれぬが、何も人間、成功するばかりが能ではない。だからおれもお前に物事執着心が弱くてはだめだのアキラメがよすぎていけないなぞと言わぬ。ただいつまでも野心だけは棄てないように、どんなになっても野心さえ燃やしていれば、人間いつでも楽しく暮らせる。」と教え諭します。

そう、これは明治から昭和にかけて活躍した社会主義者でクリスチャンでもある阿部磯雄が掲げた「質素之生活 高遠之理想」。フランス革命に幻滅してロンドンに帰ってきたワーズワースの詩“Plain living and high thinking”に連なる、野にある者のささやかな矜持。厳しい労働の最中にあっても失う事の無い正義と忍耐、ここでいう野心や理想は、家族や社会に対する“献身”として現れ、その姿に心惹かれるのでしょう。闘争に敗れ、失われたかに見えても、地下水の如く足下深くにあって滔々と流れ、大地を潤す野の先賢たちの覚悟と生き様を見習いたいものです。


参考文献

(1)旧幕新撰組の結城無二三 結城禮一郎著 中公文庫

旧題「お前達のおじい様」。幕末の風雲の最中、新選組客分(後に正式隊員とも)として、近藤勇らと共に、白刃を掻い潜り、近藤の死後は立身出世を思い切ってキリスト教の伝道者として、また一開拓農民として野に生きた人物の姿を愛息が心からの敬愛を込めて描く。父と異なり、新聞人としてまた政界の黒幕として、功成り名を挙げた正直かなり「豪腕」な息子が、不運と赤貧の中に有っても子息への愛情と、武士としての矜持を失わずに生きた男の姿をその強さも駄目っぷりをも隠す事無く、謙虚かつ誠実に息子たちに伝えようとする姿勢が素晴らしい。息子が書いた父の伝記としてべらぼうに面白いだけでなく、幕末の資料としても貴重。必読だ!


(2)明治キリスト教の流域-静岡バンドと幕臣たち 太田愛人著 中公文庫

時代の最先端の知識と能力を持ちながらも幕末の動乱で敗者の地位に落とされて、静岡に集まった幕臣たち。キリスト教に帰依し、現世での栄達の思いを断ち切って野に生きた人々を、牧師でもある著者が豊富な資料と実体験を元に描く。イビィ師のライバルであるマクドナルド師、無二三の同輩で朋友である杉山孫六、山中共古、禮一郎の先輩である山路愛山など無二三関係者の列伝と言って良い内容。禮一郎が糾弾しているAさんについても“平岩愃保“とバッチリ実名を挙げている。全編に流れる「低処高志」の精神が心地良い作品。正直、この本を読んで無二三を取り上げる決心がついた。西郷の書として有名で、著者の名の由来ともなっている「敬天愛人」が中村正直による造語(マタイ伝22章37~42節の要約)で正直の代表作「西国立志編」にも書かれているとの事。なるほどねぇ。


(3)坂本竜馬を斬った男-幕臣今井信郎の生涯 今井幸彦著 新人物往来社

坂本竜馬を斬った男として知られる見廻組の幕臣。明治の世では帰農後にキリスト教に帰依し、村長などを勤め、無二三同様、野に生きた人物。明治になって無二三を訪ねてきた氏から竜馬暗殺の経緯を聞いた禮一郎が甲斐新聞に一部脚色して掲載した文章が発端となり、谷干城らによる糾弾と竜馬の死が必要以上に謎とされる結果となった。家伝では斬った時の刀は短刀ではなく、長さ3尺2寸の長刀とのこと。榊原健吉の直弟子だから直心影流。竜馬は師である勝の本家筋の流派に斬られたのかと思うと感慨深かったです。鳥羽伏見以降は幕府側の傭兵部隊隊長として、長岡、会津、五稜郭と暴れまくっていたんですね。いやはや、凄い人数斬ってます。信郎の方が剣の修行に真剣に打ち込んでいた事以外は、キャラクターも経歴もかなり無二三に近く、仲が良かった事もわかる気がします。


(4)実録差出の磯-新撰組生き残り結城無二三伝 結城雄次郎著 甲陽書房

無二三の孫、禮一郎氏の次男による無二三伝。殆どが「旧幕新撰組の~」からの引き写し。しかも息子たちへの語り物という体裁をとった名文をわざわざ読み物風に直している為、テンポが悪くなっただけなのは残念。しかし、写真資料は充実の内容!若き日の洋装姿や晩年の白髭を蓄えた姿、朋友イビィ師など、これだけで満足じゃ。無二三のお墓の写真も載ってますが、めちゃデカッ!ちなみに著者は宝塚、東宝系の劇場支配人を歴任。ちょっと不思議な感はあるが、結城家はこれらの産みの親である小林一三と親族なので、なるほどねぇと思ったしだいです。


(5) 僕の叔父さん網野善彦 中沢新一著 集英社新書

教会内の権力闘争に幻滅し、故郷に帰って地道な膝組伝道を始めた無二三は地元の篤農である飯島信明、中沢徳兵衛という心友を得、それが日下部教会設立の基礎となる。その中沢徳兵衛の孫娘と結婚し、新たに中沢家の身内となった若き日の網野善彦は地主でありながら、無二三から伝えられたキリスト教の思想を持ち、山中共古の後継者としての民族学徒、地に足のついた共産主義理想主義者という鄙にはまれな教養人である義兄中沢厚らとの激しく存在の本質に迫る議論の中で、自らの思想を練り上げていく。本著は厚の息子で著名な宗教学者でもある中沢新一氏による、大好きだった叔父網野善彦への敬愛に満ちた「長い長い追悼文」。網野史学の遍歴を辿るにも良い内容だが、密かに漂う後継者としての覚悟が印象的。無二三は「おれはあの二人に何もしてあげることはできぬから、お前一つ何かのお力になってあげてくれ。」と禮一郎に言い残して亡くなったが、その系譜が歴史学のスーパースター網野善彦氏や中沢新一氏にまで繋がっているとは思ってもみなかったです。


(6)黒潮 徳富健次郎(蘆花)著 岩波文庫 

元幕臣、甲州鎮撫隊に近藤勇らと参加するが負傷して捕虜となり、釈放後は甲州に引きこもり、村の私塾をひらいて生活していた東三郎(ひがしさぶろう)。今は明治政府高官となっている旧知(榎本がモデルか)の誘いで20年ぶりに上京するものの、政府高官らの豪奢ぶりに反発。復讐、いや征伐心を抱いて帰郷するも、息子に無念を伝えて窮死するのが、あらすじ。著者と同じ国民新 聞に禮一郎が勤めていたこともあり、東三郎のモデルは無二三といわれる。伊藤をモデルにした藤沢伯への糾弾の台詞が、無二三にしては若造っぽ過ぎ、文学作品としては理念に走りすぎた感も有るが、著者の抱く若者らしい反発心とある種の諦念は伝わってくる。


(7)新撰組顛末記 永倉新八著 新人物往来社 

新撰組創設時、13人の幹部のうち唯一の生き残りであり、池田屋事件の奮闘でも名高い永倉新八、後の杉村義衛翁が終焉の地となった北海道の新聞記者に口述した新撰組の創設から消滅までの記録。無二三の名は出ないが、甲陽鎮撫隊の戦時に「大砲二門を要害の地におき・・」とあり、無二三の記録とも一致する。新聞の連載向けに若干の手は加わっていると思われるものの、ここまで当事者による記録は他に無く、また読み物としても充分に面白い。組内において君主の如く振舞おうとする近藤勇と古参の幹部たちが早い段階からしっくりいっていなかったこともわかる。ちなみに本名は“長倉“で永倉は脱藩の罪を慮って、本人が称した偽名。つーか、読み方同じだから、偽名になって無いし・・。


(8)江原素六 辻真澄著 駿河新書 

沼津兵学校、及び付属小学校を作り静岡移住後の幕臣子弟の教育と生活向上に尽力した人物の代表が江原素六。後に麻布中学の校長になることも有り、無二三、禮一郎、禮一郎の子達と結城家にとっては三代に亘る師である。極貧の御家人の家に生れ、「学問は貧乏人にとって害になる」と信じ込んでいる父や親族の反対の中、才能を惜しむ師や上役に支えられて講武所教授方にまで出世。鳥羽伏見以降は、自身は恭順派だが部下を見捨てるに偲びず、偵察中隊を率いて奮戦した。静岡移住後は、教育者としてだけでなく、開墾、放牧、製茶、養蚕など士族救済の為の事業を展開。経済的には失敗も多かったものの、後の地場産業確立の基礎となった。また、素六がキリスト教に帰依したことが静岡でのキリスト教布教に大きな力があったといわれている。国会議員としては、星亨の盟友として活躍。教養が高く温厚篤実な人物だが、阿部邦之助や星亨といった“豪腕で鳴らす“人物と組んだ時が一番イキイキしているように感じますね。


(9)麻布中学と江原素六 川又一英著 新潮新書 

江原素六が半生を捧げた麻布中学の設立時の苦闘と校風の確立、素六亡き後の発展について記した著。官尊民卑の風潮の中で設立された私学には、経済的、制度的苦労を乗り切って学校の確立に尽力した“創設者達の夢と理想”が確固として存在していることを感じさせる。なお麻布学園では、沼津で開かれている江原素六記念祭に“今も“学生達が参加しているとのこと。そいつは、凄ぇ。


(10)人間田辺宗英 田辺宗英伝記刊行委員会編 後楽園スタジアム(非売品) 

母の異なる長兄は阪急を作った小林一三、次兄は政友会の切れ者田辺七六という甲斐の名門の家系に生まれながら、求道心と無頼の念に引き裂かれ、早稲田時代は西南戦争の生き残りの魔人“一木斎太郎”に師事。彼からありとあらゆる”悪い事”を教わる。早稲田2年の時、若気の至りで人を殺めてしまい、2年間禅寺に篭って苦闘。家族の願いを聞き入れ、下山した田辺宗英は、彼に惚れ込んだ禮一郎の薦めで親戚でもある無二三の三女、多美子と結婚する事になる。頭山満、末永節らと親交のあった国家主義者であり、禅僧の魂を持つ、気骨の事業家として、阪急、東宝など兄弟達の事業を影から支えた。社長を務めた後楽園スタジアムを居城に、プロ野球、プロボクシングなどを新たな庶民の娯楽にまで発展させたキーパーソンの一人ともいえる。なるほど禮一郎が惚れるのもわかる奥行の深い人物ですねぇ。多美子さんも無二三の娘って感じしますし。巻末の自伝「我が懺悔」は半端じゃなく面白いです。


(11)ボクシングガゼット-第33巻第4号(1957年5月号) ガゼット出版 

日本には格闘技の聖地がある。そう、それは後楽園ホール。田辺宗英の経営上の良き女房役であった真鍋八千代氏が宗英の死後、彼の遺志を継ぎ昭和37年に新築なったビルの5,6階に作り上げた。一見かなり狭く感じるが、それを上回る絶妙な一体感のある、正に聖地の名にふさわしい場所。なぜ、野球場にこんな素晴らしいリングがあるのかと言えば、後楽園スタジアムの社長であった田辺宗英が名門帝拳ジムの会長にして、日本ボクシング協会の初代コミッショナーであり、注ぎ込んだ私財は億を越えるという日本ボクシング界の育ての親の一人だから。本著は帝拳の創始者であり宗英と父の代から付き合いのあった荻野貞行氏監修による老舗ボクシング雑誌“ボクシングガゼット”の田辺宗英追悼号。宗英も得意の剣道とかけて“拳剣一如”を説いていますが、この時代のボクシングのもつまさに「武道」って感じが伝わってきますね。


(12)共古随筆 山中共古著、飯島吉晴解説 東洋文庫 

助教兼通訳として駿府に赴任してきたマクドナルド師と共に働き、師から洗礼を受けた山中笑(えむ、共古と号す)は、牧師となって生涯を地方伝道活動に捧げた。大学南校で学び、英学など当時の最新知識を持ちながら、世俗の栄達はおろか、教会内での地位すら一顧だにしなかった氏は、静岡時代に出会った“北海道人”松浦武四郎から、在野の民俗学者としての知見、生き方を継承することとなる。伝道の合間に興味を覚えたことを採取し、書き連ねた本著は、“マッチラベルの最初期の収集者”など、初期民族学、集古学の分野において、柳田国男が師と称える先達、山中共古の「一種の遊びにも似た悠々たる学究の精神」を今に伝える。ただ、柳田の著作の様な思想的一貫性が無く拾い集めた事跡がただ連綿と続くので、読むのは中々骨が折れます。教会内における出世闘争に興味の無い変わり者、一徹な伝道者として、無二三一家とは親子に渡る親密な付き合いがあった。解説には禮一郎の名もちょっとだけ出てきます。


(13)女の肖像 古屋登世子著 アサヒ芸能出版 

無二三の長女、登世子は二度の不幸な結婚の後、父の遺言で親戚の古屋氏と結婚。古屋英会話学園の塾長として関西教育会に名を馳せるも、夫の死後、妹正子の婚家を巻き込んだ乗っ取りによって学園を追われ、精神病院に送り込まれる。混乱の中、悪魔大王との対決を経て平癒した登世子は混乱の最中に身につけた平癒力により、女性英語通訳者件「神癒の家」を主催する霊能者として活躍した。最後の結婚の前、大阪に隠居した無二三夫婦の生活が記されており、貴重。無二三の奥さんは、お嬢さんの出にも関わらず、無茶な夫を持った為に大変苦労したと思うが、夕べの手遊びに無二三が奥さんと碁を打って負け、罰ゲームとして買い物に出されている時に娘にそっと告げた「母さんがこれまであんな苦しい生活をして、いつも火の車にのりつづけながらも、心の中は楽しかったのは、父さんのような古武士のおもかげのある清廉な方を良人に持った女冥加でネ。」が心に染みる。無二三、以って瞑すべし。


(14)明治人物閑話 森銑三著 中公文庫 

碩学による明治の人物のエッセイ集。漱石、鴎外といった有名どころから成島柳北、田岡嶺雲など忘れ去られた人物まで含む中に、「旧幕新撰組の結城無二三」の後書き(ちょっとだけ長い)と、禮一郎について書いた文章を含む。著作「金儲談義」で禮一郎が語る国士風の思想がピンと来なかったがここに記されている自己紹介文を見ると「国家主義者にして生涯一新聞記者」を自認している事がうかがえる。まさに「黒潮」に出てくる東三郎の息子を地で行く感があって、興味深かったです。


(15)続ふところ手帖 下母澤寛著 中公文庫 

世間では幕府が解体時に行方不明になった財宝とやらを探している人も居るようですが、江戸城引渡しの際に11万両を味噌樽に隠して運び出しちゃったといわれるのが阿部邦之助。運び出した資金は静岡に沼津兵学校を作る資金にされたとされ、運び出しの事実を下母澤寛が阿部の盟友である江原素六に問いただした所、味噌樽の使用は否定されたが、資金の運び出しは否定されなかったとの事。新政府に強制的に出仕させられて広島に去って以降、行方がわからなくなったこの興味深い人物は、元新撰組隊士の絡むトラブルで無二三を江戸の勝海舟の元に派遣したちょっと粋な上司として「旧幕新撰組の結城無二三」に登場します。下母澤寛の調査では無二三が新撰組に所属していた事を確認できなかったとの事ですが、新撰組がらみの問題解決を無二三に命じたこのエピソードを取り上げている所からも、新撰組関係者として認識していたようですね。


(16)新撰組始末記、新撰組異聞、新撰組物語 下母沢寛著 中公文庫 

新撰組の基本資料として名高い下母沢寛の「新選組始末記」「新選組遺聞」「新選組物語」の三部作からなる名著。戊辰戦争60周年の一環として新聞記者の立場を生かし、当時まだ存命していた事件の関係者や目撃者から聞き取り調査を行った貴重な記録。下母沢寛の良い所が最も顕著に現れている作品と思います。新撰組好きを自認していながら、読んで無い人がいればペナルティーものです。でも三冊まとめて読むと、内容の重複がある為、正直ちょっと混乱しちゃって、「また同じ話かよ・・」と思っちゃうのがあれですが。


(17) 古本的 坪内祐三著 毎日新聞社 

杉山龍丸さん関連で入手したが、著者が「旧幕新撰組の~」と結城禮一郎氏のファンの為、禮一郎関連の著作を多々取り上げてくれている。古屋登世子さんの「女の肖像」の存在もこの本から教えてもらいました。「明治人物閑話」以外で、これだけ結城禮一郎にこだわって書いている本は他に無いと思います。何より著者のファン心が良い感じに伝わってくるのが、同好の士として嬉しいところです。禮一郎に興味のある方は要チェックですぞ~。


(18) 共古翁記念文集-趣味と嗜好 山中塩著 岡書院 

山中共古翁の息子さんである塩(えん)さんが師である徳富蘇峰の勧めを受けて、父と交友のあった方々からの文章をもって編んだ文集。普通だと追悼文が集まるのだろうが、柳田国男を含む集古学や民俗学関係者が故人と関わりのあるジャンルで自らの研究成果を列記するのみというかなり不思議な文集。禮一郎は塩さんとは幼馴染で国民新聞の同僚という事も有り、殆ど身内と言った立場で“研究成果では無い“追悼文「我が山中先生」を寄せており、その中に”先生は徹頭徹尾、耶蘇の伝道師を以て終始され、民族研究はその余技に過ぎなかった事。しかし生来の演説下手から牧師としての業績は世に知られることなく、民俗学の泰斗としての業績のみ知られている事を、先生の為に深く悲しまずに居られない“、と書いている。確かにこの文集の中ですら宗教家としての業績を取り上げた文章は皆無であり、「旧幕新撰組~」の引用が1/3位占めるのが気になるものの、共古翁の無念と諦念を知る者としての優れた追悼文と思う。


(19) 平岩愃保伝 倉長巍編 教文館(大空社復刻) 

「旧幕新撰組~」の中で禮一郎がA氏という仮名で無二三の牧師任官を妨害し、福音士という有給の信者伝道者に留めた一家の宿敵として怒りの筆を振るった平岩愃保氏の唯一の伝記兼追悼文集。家康の側近、平岩親吉の子孫にして、一家の経済的没落後、東大の前身たる開成学校に入るも、母の死を契機に世俗の栄達にむなしさを感じはじめる。中村正直(敬宇)の引き合わせにより、カナダメソジスト会のカックラン師と出会い入信。イビー師との甲州伝道を皮切りに、メソジスト会三派合同の規約作成や第二代の監督など教会の組織化に強権を振るった。そのまま役人にでもなればそれなりに地位には登れたであろう辣腕家だが、イエスかノーかーを突きつける厳格な性格と耶蘇排斥の時代背景が相まって、他者からみれば倣岸としか思えない振る舞いに対し、排斥の動きが有ったことが本書中にもそれとなく示唆されている。福音士は教会の経済と教学能力からくる牧師不足を補うために平岩氏が考案した手法であり、教会権威主義者たる氏にとって無二三は「牧師にする気は無いが信者確保には有能」と見られていた訳で、本人は教会の為に一生懸命で悪気は無いのだろうが、禮一郎が怒るのもさもありなん。無二三は3箇所に名前のみ登場しますが、伝記は初期の伝道者達の記録としても面白く、イビー師についてこれほど詳しく書かれた資料は他にないと思います。結構お奨めです。


(20) 東洋学芸雑誌-第20号、明治16年5月25日発行 東洋学芸社 

無神論や耶蘇教排斥の声が高まった明治16年、イビー師は後に「東京演説」と呼ばれる基督教擁護の論争に獅子吼奮闘する。東洋学芸雑誌の本号には、井上哲次郎氏(ドイツ哲学者、平岩氏とは開成学校の同期生)による「日々新聞の宗教論を評し併せてイビー氏に答ふ」を掲載。“国教として相応しく無い特殊宗教は取り締まるべきだ“との説にイビー師が反論したようだが、その反論に対し“イビー氏も拝蛇教や拝火教を維持盛んにすべきとは考えておられまい。ここで挙げているのはそういった特殊宗教のことで一般の宗教の事では無い。ただ耶蘇教は特殊宗教。“といった趣旨の反論を載せており、話が噛み合っていない事この上ない。そらー、イビー師も怒るって。


(21)勝海舟の嫁 クララの明治日記 上、下 クララ・ホイットニー著 一又民子他訳 中公文庫 

海舟の三男(梅太郎)の嫁となったクララさんを含むホイットニー一家の来日を主導したのは、東洋での新規布教に情熱を燃やす母の意向による。当人は来日後、それ程経ずに亡くなってしまうものの、母の影響を受けた長兄も宣教師になるなど、一家の宗教的に熱心な雰囲気も相まって日記の中に現れる来日外国人のほとんどが、明治初期のキリスト教布教者たちとなっている。イビー師も一度登場しますが、一家とはあまり仲が良く無いというか、かなり我の強い人物として、冷ややかな視点でかかれてます。


(22)郷土史にかがやく人々集合編 斉藤俊章編 青少年のための山梨県民会議 

昭和42年に誕生した“青少年のための山梨県民会議”発行による郷土の偉人達を顕彰する著作集“郷土史にかがやく人々”1巻から5巻までの集合版。県知事の肝いりで出来た組織のようだが、取上げられた25名の人物の中に無二三も登場。まだ中公文庫版が無かったせいか、参考文献に「旧幕新撰組~」は使われておらず、「実録差出の磯」から編まれている模様。新たな情報は特に無いが、文庫本登場以前に、無二三を取上げているのは凄いと思う。無二三の親類縁者では、雨宮敬次郎、小林一三、田辺七六が取上げられている。ちなみに当時の山梨県知事は七六の息子、田辺国男氏。


(23)新聞及び新聞記者第十年第二号 昭和四年二月一日発行-蘇峰翁国民引退号 新聞研究所 

昭和4年1月5日、蘇峰こと徳富猪一郎は社長引退声明書を国民新聞に発表し、自らの人生そのものというべき国民新聞から身を引いた。この事は、蘇峰翁を新聞界は云うに及ばず、言論界における巨人、大先駆者と信奉する当時の新聞関係者にとって大事件であった。本書は新聞の専門誌である“新聞及び新聞記者“の蘇峰翁引退特集号。彼の弟子を自認して憚らない結城禮一郎は、”家なき児と なるまでの話“と題し、日露戦争直後、講和反対派の焼討ちにあいながらも社に篭城した際に、社主の蘇峰含め社員全員が命がけの悲壮な覚悟を持って乗り切った思い出を挙げ、先生、なぜ最後まで踏ん張ってくれなかったのかと、師への怨み節を述べる。自らの我侭で社を辞めながら、その後も自由に出入りをし、墓碑には“国民新聞記者結城禮一郎”と師に書いてもらう気だった者として、これで自分には帰る家が無くなってしまったではないかと、無念さと口惜しさを大人の男の言動とは思えないほど率直に綴る。今はただのOBでしか無い事を思うと言っている事は大概無茶だが、禮一郎にとって国民新聞がいつか帰るべき我が家で有り、蘇峰翁が我侭や強情を含めて自らを受け入れてくれる父のごとき存在であった事が良くわかる。


(24)新聞及び新聞記者第十三年第九号 昭和七年九月十日発行 新聞研究所 

“社会部という名称がどこの新聞の誰による発案かは知らない。重要になってきたのは、東京朝日新聞の名物社会部長であった故渋川玄耳氏が活躍した事からと記憶している“とほぼ同年輩である朝日の鈴木文史郎氏が書いているのに悲観した禮一郎が、日本の新聞における社会部の起源について述べた“社会部と謂う名称”を掲載。社会部という名称は明治三十五年に国民新聞の政治記者だった平田久の発案であり、市井部という案を蹴って社会部とした旨が書かれている。禮一郎にとって新聞とは、他の産業のように西洋の模倣をしようにも海外の新聞自体が日露戦争の頃まで入手できず、外国人教師や海外留学者のお仕着せの指導によらず、民間の新聞人たちが一歩一歩探り足で進んで作り上げてきたものであり、先人達の苦労を知ろうともせず、新たな紙面の研究も怠り、新聞記者でございと踏ん反り返っている若い者の態度は如何なものか、と苦言を呈している。 “生涯一新聞記者“と称した禮一郎の誇りと憤りが伺える文章である。


(25)日本の近代社会とキリスト教 森岡清美著 評論社 

禁教時代、まさに命がけで洗礼を受けた人たちから始まり、明治の西洋化近代化の流れを受け、次第に日本に広まっていったプロテスタントキリスト教。その組織の形成と展開過程を、各地の代表的な教会、教団を例に挙げて示した書。如何にして外国伝道会社への経済的依存から脱却し、自立を図ってきたかの例として、無二三ゆかりの日下部教会が取り上げられている。無二三はその核となる定住伝道者の始めであり、飯島氏は無二三の来村以前にすでに洗礼を受けていたが、中沢徳兵衛氏は無二三の任期中に入信したこと、また二人の経歴なども詳しく記されている。主の馬前に討ち死にすることを最高の名誉とする武士の価値観とキリスト教の価値観の類似性、当時の先進的な地方事業家である養蚕家達への着目など、視野も広いうえに、読みやすい名著。お奨めです。


(26)ミス・ハンナリデル 飛松甚吾著 リデル・ライト両女史顕彰会 

英国伝道会社から日本伝道の命を受けて来日し、明治23年に熊本第五高等学校に赴任したリデル女史は近隣にある本妙寺に集い、物乞いによってかろうじて命脈をつないでいるライ病者達の姿に自らに与えられた神の使命をみる。私財を投じ治療施設を持つ回春病院を熊本に設立し、その生涯を日本のライ病者救済に捧げた。女史の活動はその後継者にして姪のライト女史に引き継がれ、日本における主たる流れの一つとなった。本著は病院の主事として両女史の側で働いた飛松氏がリデル女史のご永眠後1年をかけて執筆した女史の伝記。リデル女史は本活動への理解と援助を得る為、学校や婦人団体等への講演に赴いたが、京阪神方面での講演の際に通訳として随行したのが当時古屋女子英学塾塾長であった無二三の長女、古屋登世子。鐘紡の武藤山治ら各会の有力者を後援者に持つリデル女史の通訳を務めたことが、登世子が知名の士達に認められる発端となったことが語られている。


(27)お前達の御ぢい様 お父さん手記 玄文社 

「お前達のおぢい様 舊幕府新撰組の結城無二三 著作者結城禮一郎」が巻末の記載だが、本の装丁および中表紙は上記題名と著者名の超シンプルな装丁。“お父さん著”は、ちょっと予想外だったが、本来自分の息子達に読んでもらう為に記した敬愛する父(無二三)の記録であり、本を配布する相手も兄弟、親族らで有ることを思うと、これもありか。無二三の写真だけでも10枚以上あり、写真資料としての充実が文庫本と大きく違うところ。後は旧仮名遣いな所と全文ルビありが違う位か。いざ、オリジナルを手にしてみると「実録差出の磯」が本著の復刻改訂版というべき存在であり、ある種奇跡的経緯で中公文庫版が出るまでの間、無二三の奮闘と禮一郎の父への思いを後世に伝えるという大きな役割を果たしていたのだなぁと、ようやく気づいた次第です。


(28)明治キリスト教会形成の社会史 森岡清美著 東京大学出版会 

「日本近代社会と~」の著者による明治以降のキリスト教研究書。重複する内容も多いが本著にのみ記載されている内容も有り、両者の併読が必要。日下部教会関連では、無二三を知る高部氏からの聞き書きが資料として用いられており、耶蘇教を糞味噌に弾劾する坊主の説教に怒った高部氏が坊主にくってかかった為、聴衆一同が殺気立った所、六尺豊かな結城牧師が腕まくりして仁王立ちに身構えたので、新撰組で鍛えたその勢いに恐れをなして、逆に坊さんが謝ってしまったというエピソードが引かれている。無二三が大柄であったこと、福音士だが牧師と目されていたこと、日下部の人達は無二三と新撰組と所縁のある人物として知られていたことなど中々興味深い。メソジスト会の機関誌“護法”には無二三が“結城生“の名で書いたと思われる文章もあるとのこと。うーん、読んでみたいですねぇ。


(29)古屋式発音及注釈付初等英語講座-第一講 古屋登代子著 福音社書店、創元社 

無二三の長女、古屋登代子女史発行の英語自習書。この時点では漢字が“登代子”であり、“登世子”は晩年に改名したと思われる。古屋登代子名義では他にも何冊か著作がある模様。内容は第一講でもあり、中学校の1~2年生位のレベル。発音はカタカナ表記と発音記号の併用、一単語毎の逐語訳、漢文と同じく一二点の採用(1、2とアラビア数字で表記)、イラストの多用が特徴。仮名と発音記号併用のため巻頭に発音の説明があり、そこが独習するにはきつい所ですが、塾など実際に発音がわかる環境で使用するのであれば、それなりにわかりやすい教科書かと思います。


(30) 旧幕新撰組の結城無二三(限定復刻) 結城禮一郎著 中公文庫 

2005年の4月に出た限定復刻版。旧版より活字を大きくし、巻末に作家山川健一氏の解説を付加しているが、値段は1286円とこの分量の文庫にしては凄まじい事になってしまっている。旧版を読み慣れていて、どのページのどの辺りに何が書いてあるかを手が覚えているので、おいらはこの版で読むのは、ちょっと無理。ここまで値段あげるんなら解説の追加なんかじゃなくて、オリジナルにあれだけ掲載されている写真を増やせば良かったのにと思う。


(31) 江原素六先生伝 江原先生伝編纂会委員編集、結城禮一郎発行 三圭社 

結城家三代に渡る師である江原素六の追悼集兼伝記。禮一郎が編集責任者であり、一度印刷を終えたものの納得がいかず、さらに1ヶ月かけて編み直しており気合いの入れようが伺える。冒頭に挙げてある写真の内、明治27年静岡教会でのメソジスト会員の記念撮影には無二三が、明治28年の東洋英和学校の生徒写真には若き日の禮一郎の姿が見られる。中編の“逸話”は禮一郎のカラーが色濃く出ており、禮一郎自身が若干21才で甲斐新聞に抜擢された背景に江原素六の推挙があり、仕事がし易いようにと、「憲政党本部特派員」というかなり箔のある肩書きをつけて送り出してくれ、先生の為には死も辞さずと感憤したことが記されている。栄達の容易な地位にありながら、在野の一教育者、民党の一政治家として廉直かつ清貧に生き、多くの幕臣子弟に慕われた江原素六の生涯を尊敬と敬愛の念を込めて一冊の本にまとめている。発行人としての節度は守っているものの、もう一つの“お前達のおじいさま”と呼ぶことの出来る書と思う。


(32) 闘病三十年間の私の事業と信仰と療病法-古屋文庫第壱 古屋登代子著 古屋女子英学塾同窓会 

古屋登代子女史が少女時代に罹患し、宿痾となった結核により、内臓系を含む体全体が病魔の巣窟となりながらも、信仰に基づく総合療法(田村霊堂師創始の大霊療法禅霊術)により、精神と肉体の回復を見た経緯と英学塾経営の奮闘を記している。当時としては稀な近代西洋教育を受けた女史が、晩年に霊的治療者となったことを不思議に思っていましたが、なるほどこれだけ長い間病気に苦しめられており、それが霊的治療により完治とは行かないまでも、日々の活動を行うには使用のないレベルにまで回復したのであれば、そらー、治療者をも目指すよなと思いました。しかし、これだけ体ボロボロだったのに、結局80才過ぎても活動してたってのは凄いですよね。


(33) 最新金儲談義-(1)地道の利殖 結城禮一郎著 五福堂 

自分は無職の時でも心は新聞記者(自称無任所新聞記者)なので、本は書いても新聞以外に名前は出さないと言う信念を持つ禮一郎が出版社の友人や知己の経済人(小林一三や福澤桃介!)らに薦められて表した金儲けの本。親族には小林一三や雨宮敬次郎ら一流の経済人がおり、本人も安定した広告収入によって初めて成り立つ新聞を経営してきた経験から、種々の利殖の方法について記している。第1巻である本著は、株とか土地投機もありますが、貯蓄や保険、無尽講など 利息を地道に貯めていく案件が主。無尽講があるのが時代か。よく調べてますし、何よりスムーズに読ませる文章な上、禮一郎の身辺エピソードも豊富で中々面白いです。全巻揃えたいのですが、あんま見かけなくてねぇ・・。


(34) 食道楽(第9年第8号-昭和10年8月1日発行) 食道楽社 

米朝師匠の師である正岡容が責任編集を勤める食道楽をテーマにした雑誌。本号では結城禮一郎の「牛めしと野口英世」を掲載。当事すでにB級グルメであった牛めし創成期の逸話について語っている。禮一郎が明治30年に毎日食べていた当事の牛めしには肉はほとんど無く、内臓が主で他に筋と脂を何日も煮たものであり、注文を受けるとそれに葱を一掴み投げ込んで柔らかくなった頃合に網柄杓で少し硬めに炊いた丼飯にかけ、唐辛子をかけて食べる代物であったとのこと。(もつ煮丼だよね、これ。)

また、国民新聞記者になったばかりの頃、金が無くて下宿が出来ず、縁故を辿ってイビー師が作った本郷中央会堂の二階に住ませてもらい、部屋代代わりにパイプオルガンのポンプを押して風を送る役をしていたこと。ポンプ係の後任はあの山田耕作で中央会堂には柳田國男も良く通ってきていたこと。食事は隣の牛めし屋と月一円八十銭で朝と晩に食べさせて貰う契約としていたが、近くに小杉という本屋があり、済世学舎で学んでいた野口英世が本屋の次女に気が有って、牛めしを食べに来た風を装って通いつめていた事などが書かれている。中央会堂に潜り込んだ伝手は無二三の尽力によるものと推察するが、禮一郎自身が、山田耕作や柳田國男、野口英世といった教科書に出てくる人達と若き日々を共に過ごしていたというのが興味深かった。

0コメント

  • 1000 / 1000