斉藤実(さいとう みのる)

1931(昭和6)..~1999年.11.22

1931(昭和6)年千葉県に生まれる。中央大学経済部卒業。記録映画監督となり広報映画制作会社を友人と設立。御上(スポンサー)大事の広報映画制作に飽き足らなくなった事もあって会社をやめ、働く側の視点に立った映画作りを行うべく、自らマグロ漁船に乗り込み、撮影を続けた。その結果、戦後の食糧危機から高度成長時代への時期、食糧確保のため、小型船での南洋への長期航海、厳寒期の北洋など危険に満ちた過酷な労働に従事する船員たちの海での生活や、事故によって一家の主を失った海難家族達の苦労と、深く向き合うこととなる。

昭和40年9月、TV局の依頼を受け当時「神風漁船」といわれた近海マグロ船の取材中、台風に遭遇。氏の乗る船は無事港に帰着したものの、同日、別の漁船が遭難。乗組員は救命ゴムボートで脱出し、十数時間後に別の漁船に救出されるもすでに2名が死亡していたこと、また翌年マリアナ群島沖で、静岡のカツオ船団が台風28号に巻き込まれた死者209名の大量遭難に、大きな衝撃を受ける。「海の遭難では飢えや渇きのためだけでは無く、絶望による精神の混乱が死を早める。だが、海水は遭難後5日程度であれば飲むことが可能だ。」と説き、自ら漂流実験を行ってその効果を示した仏人医師アラン・ボンバールの著作を読み、自らを実験台にした海水飲用実験など、万が一、遭難漂流しても海難遺族を出さない方法の究明と実証を行う決心をする。

昭和41年7月、海水飲用組と真水飲用組の比較を目的とした第1回目の漂流実験を実施。しかし、船酔いと脱水症状の為、真水飲用組の参加者が倒れ、漂流4日目でSOSを発信、巡視艇に救助を求ることとなった。4日間海水を飲み続けても異常は無いこと、救命艇は帆走機能を持つべきだとの確信を得たものの、その志と結果は無視され、「人騒がせな“海の冒険”」と国賊的な扱いを海上保安庁やマスコミから受ける。「しからばなんとしてでも、この汚名を晴らさん」と、海上労働研究所の久我ドクターの協力を得て、海水3日飲用後、真水を1日取ると形での飲料水の飲み延ばしを目的とした第2次漂流実験(昭和41年12月)を実施したが、海水と真水の反復飲用では、尿の比重が十分に回復せず、脱水傾向にあるとの知見を得た。また、第三次漂流実験の費用を集めるため、自ら撮影した記録映画を持って、日本を自転車と徒歩で4周。万が一の死を覚悟して妻も娶らず、主持ちもせず、普段はテレビ、冷蔵庫、洗濯機、暖房機など何も無い三畳間のアパートで寝袋に包まって、記録映画制作で得た資金はすべて漂流実験につぎ込む生活を続けた。

飲料水の飲み伸ばし手段について苦闘していた折、東邦大学医学部の伊藤博士から「ハツカネズミに飲料水としてリンゲル(生理食塩水)を飲ませたが、全く無害であった水1+真水2の混合液はリンゲルと同じ塩分濃度だから、人間が飲んでも大丈夫だろう。」との教えを受け、早速飲んでみて「なるほどこれはいけそうだ。」との感触を得た。昭和47年7月、①海水真水反復飲用組、②海水真水混合飲用組、③真水飲用組の3組の比較実験を目的とした第三次漂流実験を帆走能力を持つ救命ゴムヨット「ヘノカッパⅠ世号」で実施。同号の破損により外洋漂流は中止し、飲用実験のみを与論島の湾内で行い、②海水1+真水2の混合飲用組が最も体内の水分減少が少なく、海水による飲料水の飲み伸ばしの可能性を示した。

しかし、湾内に浮かべた船上での飲用実験では現場主義の船乗りたちの信用が得られないと考え、自ら映画販売を行って得た資金の他、全国からのカンパ金、友人、親族の応援を受けた資金を元に、帆走機能と転覆防止のためのゴム製のスカートなど、将来の救命艇に必要と思われる機能を盛り込んだベニヤ板を主体とした救命ヨット「ヘノカッパⅡ世号」を製作。昭和50年10月7日、単独でサイパンから沖縄まで2ヶ月強に及ぶ、第四次漂流実験を開始した。出発直後、タンクの蓋が外れていたことから貴重な真水を失うこととなったが、友人の製作してくれた太陽熱蒸留による真水製造機「オアシス」や雨水の回収により乗り切ることを覚悟し、実験を続行。オリエーテーリング用の方位磁石と時計、クロス・スタッフと呼ぶ簡単な北緯計で位置を確認し、食料はシイラやカワハギを釣り、飲み水は海水真水の混合液で、11月20日まで順調に航海を続けた。沖縄本島まであと少しとなったところで、風速70mを超える超大型台風20号(ジェーン)の直撃を受けることを知るが、最後まであきらめず、生き抜くために徹夜で補修を行い、台風の只中に乗り込むこととなる。

波に叩かれ天幕は破れ、必死に排水作業を繰り返す中、大波を受け11月22日ヘノカッパⅡ世号は転覆。艦尾板にしがみつき、命綱を艦尾に結びつけたものの、大波を受けるごとに命綱の長さ分だけ海中に叩き込まれ、海水をしこたま飲まされ、痛めつけられることになる。苦痛から一瞬自殺を考えたものの、「人間、死にものぐるいになれば、なんでもできるさ。」と思いなおし、波の合間を縫って艦底に這い上がりセンターボード(船の横流れを防ぐため船底につけた板)にしがみつき、波による強打を耐え凌ぐ。台風は22日夜半に通過したものの、長期の漂流で体力が消耗していたうえ、丸3日間寝ていなかったこともあり、幻覚と悪夢に苦しめられることになる。海中に漂っていたセール(帆)を拾い上げて寝袋代わりに身体に巻きつけて極力体力の消耗を防ぎ、最後の1秒まで、死ぬ瞬間まで生きる努力をしようと艦底上に横たわって眠りに落ちた。数時間後の11月25日午後5時、和歌山県那智勝浦港所属のマグロ延縄漁船「第五亀甲丸」に救助され、生還を果たした。

日本到着後は打撲と栄養失調のため、即入院。極度の体力の消耗から入院期間中に肝炎を再発。幾度かの入退院のあと、漂流実験の記録を書き、水産高校での記録講演を20校以上行うなど、第五次漂流実験に向けての準備を進めたが、第五次以降の漂流実験は果たせなかった。その後は、肝臓の悪化もあって海から離れ、交通事故防止のための啓蒙作品を製作。秩父に移り住み、妻宏子さんと共に「食事とコーヒーの店 へのかっぱ」を開き、子供たちに紙芝居を見せたりしていた。やがて、慢性肝炎が肝硬変から肝臓癌となり、入退院を繰り返す日々が続いた。1999年11月17日、急に容態がおかしくなり、入院。翌、18日にはクリスチャンである奥さんに前からすすめられていた洗礼を自ら希望して受けた後、11月22日夜に68歳で亡くなった。


注目理由

最近、江戸時代の漂流物をまとめて読む機会がありまして、その時に「漂流といえば日本人で漂流実験をした人がいたっけなぁ。あの人、交通安全とかの広報映画の監督っていってたけど、なんで映像屋が漂流実験やってんだぁ?」と、ちと不思議に思い著作を手にすることに。台風に巻き込まれ、奇跡の生還を果たした(一部で)有名な第四次漂流実験の記録「漂流実験-ヘノカッパⅡ世号の闘い」を読んで愕然!!

1931年生まれって事は、この漂流実験の時って「43歳」。43つーたらあんた、植村の亡くなった歳ですよ。おっさんじゃん!太平洋単独航海の堀江謙一さんと比較されることが多かったり、写真だと結構若く見えるため、てっきり20代後半から30位と思ってました。

だとすると、凄い、マジ凄ぇよ。人生の何たるかを知らない若造が有り余るエネルギーに任せてやってる冒険たぁ訳が違う。10年に及ぶ漂流実験だけで無く、海難遺族をケアする保険制度や諸手当拡充への広報活動など、当事者の声を汲み取る日々の努力に裏づけされた綿密な調査と実証など、マジ半端じゃ無いわ。つーか、この人は冒険家というジャンルで括るから変なのであって、ボンバールやヘイエルダールのような実践的研究者という視点と、社会正義を自らの手で実現しようとする、良い意味での「国士」「国事家」として捉えた方が、おいら的にはすっきりしますね。


参考文献

(1)漂流実験-ヘノカッパⅡ世号の戦い 斉藤実著 海文堂出版

10年間に及ぶ漂流実験の集大成として、自作の帆走ベニヤ艇「ヘノカッパⅡ世号」でサイパンから沖縄までの太平洋単独漂流実験を行い、貴重なデーターとともに奇跡の生還を果たすまでの記録。一介の映像作家が、生活のすべてを注ぎ込んで漂流実験にかけた過程と心意気が、ビンビン伝わってくる傑作。漂流実験の記録として貴重なのは当然だが、実験を前に死の恐怖に捕らわれたことを正直に告白し、台風の中に突っ込むと決まってからは、逆に開き直りやれるだけの事はやろうと覚悟する姿など、自らの信念に命を賭けた姿を記録した本作品は、いつまでも価値を失わないものと信じる。


(2)太平洋漂流実験50日 斉藤実著 依光隆画 童心社

上記「漂流実験」の内容に漂流実験後の療養生活の詳細を追加し、全体を子供でも読むことが出来るように著者自らが編集と調整を行った作品。現在はこちらの方が入手は容易。どうやら文庫版もあるらしい。子供だけに読ませておくには惜しい本ですわ。ちなみにここで語られた第五次漂流実験の結果については、あっしは未見です。(結局、肝臓障害の問題で実施はされなかったとの事)


(3)悲しみの海-いま漁船海難遺族は 斉藤実著 海文堂

遭難により一家の大黒柱を失い、精神的にも経済的にも困窮の淵に突き落とされた海難遺族たちの実態を日本中の漁村を訪ねて残された妻や幼い子供たちの口から直接伝え聞いてきた斉藤氏が、厳しい生活の実態を第五次漂流実験で万が一自らが命を落とす前に、まとめ、残しておこうとして表した書。昭和40年代の遭難が多い為、遺児たちはおいらとほぼ同年代だが、保険や共済のシステムが不十分であった事もあり、相当経済的にきつい生活を強いられていたのがわかる。うちもお金持ちじゃないが、同じ時代にこんな困窮生活をしていた人達がいたとは、ちょっとショックだった。巻末は30p以上に及ぶ船員保険、共済保険、生活保護制度、海難のリストなど多くの資料とともにその不備と改善点を取り上げており、生活保護等の福祉制度が遺族たちをより痛めつける結果になっていることや、弱者救済という本来の目的が果たされていないことを糾弾するなど、斉藤氏の視点と主張が良くわかる。


(4)実験漂流記 アラン・ボンバール著 近藤等訳 白水社

最初の本格的漂流実験を行い、斉藤氏にも大きな影響を与えたフランス人医師アラン・ボンバールのゴムボート異端者号による大西洋漂流実験の記録。たまたま宿直の時に呼び出された海難事故。寒いとはいえ、岸も近いので楽観視していたボンバール医師が見たものは救命胴衣をつけた43人もの死者たちの姿であった。統計的には海難者の90%が3日以内に死ぬという事実を知り、彼は「飢えや渇きによって死ぬにはもっと多くの時間が必要であり、船が沈む時に人々は世界が船と共に沈むと思い込み、足を支える板が無くなるので、勇気と理性が同時にすっかり失われてしまう。物理的、生理的条件が致命的となる前に恐怖のために死んだのである。」と看破した。その上で、海難者を恐怖による死から免れさせるため、著者らは数度の近海での漂流体験を下に65日間に及ぶ大西洋漂流実験を敢行した。斉藤氏同様、困難と衰弱に見舞われたものの、海水は5日以内であれば腎不全を起こすことなく飲用可能であること、ジューサーで魚に含まれる水分を搾り出し、これを飲用することで水分補給が可能であること、食料として海中のプランクトンが有効であることなど、貴重なデーターと共に無事生還した。しかし魚を圧縮して、その絞り汁液体を飲むつーのは、刺身好きの日本人でもちょっと厳しそうだなぁ。


(5)百魔 杉山茂丸著 講談社学術文庫

茂丸を見習って国事に奔走せんとする実弟龍造寺隆邦に、茂丸が「真の国事家は、四鯛病を退治せねばならぬ。それは、長生仕鯛、金儲け鯛、手柄が立鯛、名誉が得鯛、の四つである、すなわち、死、貧、功、名、の観念を解脱して、命は何時でも必要次第に投出す、貧乏は何程しても構わぬ、縁の下の力持ちをして、悪名ばかりを取って、少しも不平が無く、心中常に爽然の感が漂うて春風徂徠の中に徜徉(しょうよう)するがごとき境涯にならねばならぬ。(略)故にその国事家は損して、悪名を取って、身を粉に砕き、揚句の果てには死んでしまう。それが大成功であるから、普通常識の考えからは大損である。先ずそんな事は止めたが好いと思う。」と諭すシーンがあり、斉藤氏の著作を読んでいるときに何故かこの台詞を思い出します。やっぱ、誰にでも出来る生き方じゃ無いよなと。なお、この講談社文庫版の「百魔」はオリジナルから一部不適切と思われる語句を「勝手に」削除、変更しているので注意。できれば「大日本雄弁会講談社刊行」の旧著を一読することをお薦めしますが手に入れるのが大変で。


(6)コン・ティキ号探検記 トール・ヘイエルダール著 水口志計夫訳 ちくま文庫

南米とポリネシアの文化的近似性を南米から筏でポリネシアに航海していた人達がいたと推察。それを証明するために、バルサで作った筏「コン・ティキ号」に仲間と一緒に乗り込み、命をかけた冒険によって見事南洋諸島までの航海を実証して見せた世紀の冒険航海の記録。移動の方向などは今も議論があるようだが、古代の航海術がこれまでの常識よかなり高いレベルにあり長距離の移動が可能であったことを示した偉大な成果といえる。なにより、怒涛の如く押し寄せる西洋文化に、自信を失っていた南洋諸島の人達に自分たちの能力や文化に対する誇りを取り戻させた功績は、非常に大きく決して忘れ去られることが無いだろう。ちなみに航海中の水は筏の側面に設置した竹筒に詰め常に海水で洗われることによって温度上昇と腐敗を防いでいる。後のイースター島をみても、この人は、理論はちょっとゲリマンダーな所もありますが、実証性となにより着眼点が常人では無いと感じさせてくれますね。


(7)キャプテンコン・ティキ(上、下) A・ヤコービー著 木村忠雄訳 教養文庫

幼少からコンティキ号漂流に至るまでのヘイエルダールの半生を、幼馴染の作家が近親者ならではの視点で綴った好読み物。真面目で有能、理想主義者、実証派ではあるが直感を大事にし、理論家にしてロマンチスト、何よりものすごく強い意志と貫徹力をもつ友人を、単純な英雄賛美に陥ることなく描いている。裕福な幼少期から、新妻との南の島での歓楽と苦闘、アメリカでの極貧生活、ノルウェー解放のため軍人になって行った諜報活動、自らの理論を証明するための筏での太平洋横断行とそのもたらした大反響など、内容も豊富。個人的には「コン・ティキ号探検記」より面白いと思います。


(8)たった一人の生還-「たか号」漂流二十七日間の闘い 佐野三冶著 新潮文庫

レース中に大波を受けてヨットが転覆し、ラフト(救命ゴムボート)に乗り移るも、仲間たちがつき次々と息絶える中、ただ一人27日間の漂流の末に奇跡的な生還を果たした人物が亡くなった人への鎮魂と無念をこめて書いた漂流体験記。著者は塩辛くて飲めなかったものの、他のメンバーは斉藤氏の漂流実験を知っており、飲み水に30%の海水を混ぜて何とか飲み伸ばそうとしている。しかし一日の摂取量が真水で20mlと極端に少ないため、脱水症状から体力を失い、次々と消え入るように亡くなっていく姿が悲しい。また、彼らの衰弱死の引き金となったのが、自分たちを発見してくれたと確信した捜索隊の航空機(P-3C、YS11)が真昼に直上を通過したにもかかわらず救命ボートを見落としており、救援が来ない事を知ってからということは、極限状態においては絶望というものがいかに死と深く結びついているかを痛感させる。8人乗りのラフトが6人乗れば足を伸ばして寝る事も出来ない、漂流中にどんどん空気が抜けていく、帆走能力が無いため島が近くに見えても近づくことも出来ない、など救命ゴムヨットについて、斉藤氏が指摘していた事項が殆んど改善されていないこともわかる。このあたり、国も救命ボートメーカーも何をやってるのだろうか?


(9)冒険と日本人 本田勝一著 朝日文庫 

日本において「学術的探検調査行」に比べ「冒険行為」が「単なる冒険」という言葉に示されるように、社会的価値の低い行為として見られ、圧迫、批判されていることをインタビュー等を通じて示し、彼ら冒険家の持つ「冒険心」という大きな行動力とエネルギー自体をもっと(外国のように)評価すべきだと論じた本。個人的には堀江賢一さんと金子健太郎さんとのインタビューが興味深かかった。堀江さんと斉藤氏はあまり接点が無いように感じていたが、堀江さんが斉藤氏を高く評価していた点はちょっと意外であった。また、斉藤氏の海水飲用実験にも参加したことのある金子氏がプランクトンを食料として利用可能である事を示そうとして行った太平洋漂流実験と腎臓結石による中断と漂流からの生還の経過を記してある。漂流中の金子氏を見つけた日本の汽船外車の貨物船が、発見後一度船を止めたにも関わらず、救助によりスケジュールが狂い賠償請求されることを嫌い、見なかった事にして走り去っていく姿が憎々しい。本田氏は、金子氏の主目的は本人の自覚のいかんに関わらず、「冒険心の発露」が主で、掲げている「社会的目的(プランクトンの生食)」はその理屈付けなんだと、インタビューで誘導しているのがちょっと不愉快。本人は止むに止まれぬからやっているのであって、冒険心と社会的目的のどっちが重要かなんて、どうでも良いじゃん!と思う。


(10)山と渓谷-2000年3月、No.776号 山と渓谷社 

地平線会議代表世話人でもある江本嘉伸氏による斉藤実氏の追悼記事が掲載されている号。肝臓障害が原因で第五次漂流実験が行われなかったこと、交通事故防止の記録映画制作、洗礼を受けての死など「漂流実験」以降の斉藤氏についての記載は貴重。晩年の写真、ヘノカッパ三世号の見取り図の掲載も嬉しい。江本氏が末尾に記すように「そしてなによりも、自分のためではなく、社会のための冒険を 実績した稀有な人間、として記憶されるべきと思う。」には全く同感。情報を提供くださったdorogameさま、ありがとうございました~。


(11)海の生還者 斉藤実著 評言社 

第5次実験においては到着予定地をアメリカとし、堀江賢一氏の様に米国での評価を日本に輸入するしか無いと考えた斉藤氏が、漂流実験により命を落とすことになっても後悔しない様にと、陸で命のあるうちにまとめた、漁船船員らによる実際の漂流体験の記録。風速70mを超す台風の真っ只中に救命胴衣無しに投げ出されながらも奇跡的に生還した男の死闘、救命ボートが何度もひっくり返り、仲間が次々と沈んでいく中、流されないようにとロープでゴムボートに括り付けた仲間の遺骸がシーアンカー代わりとなって生還できた事例など、壮絶と呼ぶことすら憚られるほど生々しい遭難の実態が描かれている。


(12)漂流 吉村昭著 新潮文庫 

江戸時代の漂流を多く書かれている吉村昭氏の漂流ものの代表作。シケに会って黒潮に乗り南海の孤島「鳥島」に漂着した土佐の船乗り「長平」が、相次ぐ仲間の死を乗り越え、同じく漂着してきた人達と協力して流木から船を作り、12年目に帰還を果たすという史実に基づいた作品。漂流時の苦闘もさることながら、船を作って帰還を目指すという発想がホント凄いと思います。作品としてもグイグイ読ませる力が有り、お奨めです。


(13)ヘノカッパ号の冒険-海水は飲める! 漂流実験7年 斉藤実著 八雲井書院 

ようやく入手できた斉藤氏の最初の著作。前半を遠洋マグロ船、北洋漁船に乗る漁船員達の過酷な操業の実態と死と隣り合わせの中にあっても失われない純朴な人間性について記し、後半1/3が第3回までの漂流実験の記録となっている。特に斉藤氏を漂流実験にのめりこませるきっかけとなった、第1回漂流実験の詳細な記録が貴重。参加者の一人が、救命ゴムボートの一般船舶では考えられないような不規則な揺れによって引き起こされた船酔いと、それによる嘔吐が原因で脱水症状を引き起こし、かなり深刻な生命危機の状態にあり、実験の中止もやむをえなかった訳だが、斉藤氏の無念は伝わってくる。最初の実験だったことも有り、安全面への配慮不足と、救助は基本的に海上保安庁任せってのは、まずかった気がします。(この点は後の実験では不十分なものの、改善されていきます)あと、“漂流実験記録映像の商業利用”なども糾弾理由に挙げられていますが、これは漂流実験自体に多額の費用がかかりますから、致し方無いと思うんですけどねぇ。全日本海員組合文化部への贈呈本のため斉藤氏直筆の書き込みが有って個人的には大変嬉しいのですが、“この本売っちゃ駄目だろ、海員組合・・“とも思います。


(14) 太平洋漂流実験50日 斉藤実著 依光隆画 フォア文庫 

現在も新書で入手可能な斉藤氏の唯一の著作。表紙が新たに描き起こしになった以外は原則、童心社のハードカバー版と同じ。児童書一筋の4出版社による共同出版文庫であるフォア文庫によって、斉藤氏の志が21世紀の子供達に伝えるすべが残っているという事については大変ありがたく思っています。

(15)OCEAN LIFE 第5巻第7号(1975年7月号) オーシャンライフ社 

斉藤実氏による“第4次漂流実験計画大幅に変更”を掲載。当初第4次漂流実験のコースを、腎臓結石でプランクトンを食料としながらの太平洋横断を中断せねばならなくなった盟友金子健太郎氏の無念を引き継ぎ、金子氏が断念した太平洋のど真ん中から漂流実験を開始しようと考えていた事。しかし、ゴムボートから鉄骨ベニヤ張りの平底船としたことで船体重量が増えた事と、太平洋への移動に出漁漁船の協力が得られそうにないことから、グアムから日本へのコースとしたこと。日程も当初は台風を避けて6月初旬の予定であったが、船体製作の遅延もあり、マリアナ大遭難のあった10月7日を目指すことにしたことなどが記されている。「斉藤さんは大変評判が悪いから、組まないほうが良いですよ。」と久我ドクターに注進した人物の実名を挙げており、「斉藤さん、だから敵が増えちゃうんじゃないの・・。」と思ったりもしますが、その真摯さは文章からも強く伝わってきます。ちなみに先月号にも斉藤氏による漂流実験の記事が掲載されている模様。探さねば。


(16)Life Protection いのちを守るデザイン①展 株式会社INAX名古屋ショールーム

1989年にINAXギャラリー名古屋企画委員会がINAXブックレット’89-NO.Iとして発行した冊子。防災、救命に関連するグッズを57点紹介するとともに関連するテーマについて専門家の寄稿をまとめている。斉藤実さんの「生死をさまよった漂流実験」を掲載。第4次漂流実験の談話が海洋救命グッズ紹介の閑話として1ページ強ではあるが取り上げられている。この本、INAXの本業と鐚いち関係無く、バブルのメセナ全盛期でなければ作れなかっただろうなぁと思った。


(17)地平線の旅人達-201人目のチャレンジャーへ 地平線会議編 株式会社窓社 

1979年から1996年まで月1回行われてきた地平線会議での報告者が200人を超えたことを記念し、報告者全員に依頼したアンケートをまとめた本。斉藤さんは1981年11月27日“へのかっぱ号の漂流実験”の報告者として登場。「冒険を行う場合に資金集めが重要課題になるが、その場合TV局やその下請けのプロダクションに頼るな。協力してくれる場合は失敗しても命の危険がない安全な冒険ということだし、自主性が失われタレントに成り下がる。命の危険がある冒険には社会からの糾弾を恐れて前金なんか出してくれやしないから、最初っから頭を下げるな。」と語っている。タレントに危険に見えることをやらせて視聴率を稼いでいる昨今、非常に説得力のある意見である。この時は映像作家として「事故はすべて見込み違いで生ずることを交通映画で証明しようとしている。」とのこと。老成した報告者も多い中、相変わらず熱いところが微笑ましい。

👇 20200913 (18)を追加

(14)GORO 4月14日号(第4巻第7号、昭和52年4月14日発行) 小学館 

植村直巳と同時期に北極海に向かう前の堀江健一氏とヘノカッパII世号の漂流実験から生還した斉藤実さんとの対談”堀江健一vs斉藤実サバイバル対談”を掲載。知名度には大きな差があるが、お互い相手をリスペクトしているのがわかる。ヘノカッパII世号の漂流実験についても紹介しており、担当編集者がよくわかっている人なんだと感じる。堀江氏からは飲料水がなくなった場合、ヨットの帆に溜まった雨水を集めて飲料水にでき、その水も帆に海水の塩が付いているので、ある程度雨で塩が流れてから取るというヨットマンの知恵が語られる。斉藤さんの転覆後、尿まで飲んだ感想がさらりと語られていてすさまじい。


関連リンク

地平線通信・・204号に「食事とコーヒーの店 へのかっぱ」がのってます。

0コメント

  • 1000 / 1000