1919(大正8).5.26~1987(昭和62).9.20
杉山泰道(夢野久作)の長男として生まれる。祖父は明治~昭和期に政界の黒幕として活躍した其日庵こと杉山茂丸。祖父や父と異なった生き方を望み陸軍士官学校を志望するが、入学を控えた昭和11年3月11日父泰道が脳溢血で急死する。陸軍士官学校入校後、祖父、父の願いも空しく、軍部の暴走により日本は中国との戦争状態に陥り、日米開戦へと突き進んだ。昭和17年、戦争絶対反対を近衛文麿、頭山満、広田弘毅等に説くが、すでに引き返すことの出来ない段階に突入したことを悟り、精一杯やって一人でも多く生き残るすべを探ろうと決意する。
昭和18年、陸軍航空技術学校を出た後、陸軍飛行第31戦隊付として満州、中国を転戦。敗色も濃厚となった1944年、兵員輸送船『扶桑丸』の副輸送司令官としてフィリピンへ向かうが、船は米軍の攻撃を受け沈没。11時間の漂流後救助されたものの、部下の1/3と整備用具のすべてを失って、マニラに辿り着いた。陸軍飛行第31整備隊隊長、比島隼戦闘機成整備隊長(特攻基地整備隊長)などを歴任したのち、基地に戦闘機が無くなったため内地勤務を命じられ、ボルネオへと移動。タリオで敵機の機関銃掃射弾を受け、すぐに死ぬと告げられるが、幸いにも命をとりとめ、絶望的な飢餓と困窮の中で少佐として終戦を迎え、退役。
5年に及ぶ療養後上京し、米軍戦車の修理、セールスマンなどを経て技術者として独立した頃、日本山妙法寺の藤井日達師の弟子の『佐藤行通』氏と再会。佐藤氏にインド人留学生を紹介されたことがきっかけとなり、ガンジー塾の人たちと関わっていくことになる。1955年、インドのネール首相より協力を求められ、アジアの国民生活と生産技術を指導する為、国際文化福祉協会を興し、日本国内においてガンジー翁の弟子達の指導を行う。1962年ガンジー塾の招きによりインドを訪れ、その困窮の凄まじさと、国を良くしようと願う人々の熱意に打たれ、貧困と飢餓の克服に尽力しようと誓う。インドでは下層民の仕事とされる実業(農業、製造、商取引等)を充実させることが国を富ませると考え、それまで省みられていなかった、下層農民の生活の充実を目的とした荒野の緑地化を進言し、現地での準備実験と実地指導を始めた。地形を調査して伏流している地下水脈を遮るように保水目的の砂漠植物を植え、植物の根により土壌を安定させる。その後、砂漠での成長が早く、現金収入とすることが可能であるユーカリなどの有用植物を植えて、植林帯を作る。この植林帯のもつ保水力により、周辺地域での恒久的な農業を実現した。
また、1961年にパンジャップ州の国際道路にユーカリの植林を進言。1964年ユーカリの苗木を作ることに成功し、この年から1972年の間、国際道路の40kmにわたる区間の両側にユーカリを植林。1972年には成長したこの街路樹帯の成長により、その周囲2kmの範囲において蓬莱米の栽培に成功し三毛作の道を開いた。また、1974年インドの国民生活、産業技術の基礎指導事項が完成し、ニューデリーで日印地域工芸展を開催し、その成果を披露した。
1975年、佐藤栄作元首相の要請により、砂漠緑地化に関するこれまでの成果を論文にまとめ世界に向けて発表。日本政府による資金援助の可能性を得るが、話が進展する前に佐藤栄作が死去し援助計画は頓挫。1977年インド農業省の要請でヒマラヤ南陵のシュワリツク丘陵土砂崩壊の問題を解決する。幾多の失敗と困難を乗り越え1982年に20年来行ってきたパンジャップ地方の緑地化の達成を確認。1984年オーストラリアの第2回国際砂漠会議に出席し、インドで成功を確認した砂漠緑化の植林による方法の基本科学を発表。47カ国の人々と交流し帰国。父から受け継いだ財産である杉山農園を手放し、インドをベースにして活動を続けたため、家族と過ごす時間を犠牲にするなど、すべてをなげうち、実際に成果を出してきたにもかかわらずついに日印の政府機関による支援を受けることは出来ず、1987年68歳で亡くなった。
また、夢野久作の長子として、鶴見俊介や西原和海らの久作再評価の動きを、資料を提供するなどして積極的に助けた。その成果は1966年の夢野久作全集の刊行として結集し、夢野久作はそれまでのマニアにのみ知られている変わった探偵小説家から、日本文学史上に特異な位置を閉める巨星と認識されるにいたった。
『 人々のことを広く深く思いやる、すぐれた人格者の行いは、
長い年月をかけて見定めて、始めてそれと知られるもの。
名誉も報酬ももとめない、まことにおくゆかしいその行いは、
いつか必ず、見るもたしかなあかしを、地上にしるし、
のちの世の人びとにあまねく恵みをほどこすもの。 』
(樹を植えた男 冒頭より)
インド砂漠緑地化事業に全財産をつぎ込み、その業績をほとんど認められること亡くなった人物。今はまだあまり知られていないが、あと10年もすればその業績が大きく認められることと思う。
おいらは、星新一氏の本『明治の人物誌』にちょっと顔を出すので名前だけは知ってたが、その業績はテレビ番組で始めて知った。番組は龍丸氏の長男『杉山満丸』氏が俳優の田中建と一緒に父の業績を訪ねるといった内容。この満丸氏は、父親の龍丸氏が受け継いだ財産を、インドでの事業につぎ込んですべて使い切っただけあって、経済的に恵まれていたとは言えない感じの、ごく普通の人。インドでは他の手工業発展のための支援なども行っており、緑地事業は秘密だったので、息子さんも父親のやってきたことについては何も知らないの。訳の分からないことにお金をつぎ込んで亡くなった父に対し、含むところもあったであろう息子が、父の業績を実際に見ることで、父を見直し、和解していく過程がとても良かった。
番組の白眉は、シュワリツク丘陵での緑地事業跡の訪問。インド政府が完全に匙を投げた全長3千㎞をこえる丘陵地の土砂崩れ問題の原因が森林が薪として伐採されたことと見抜き、現地の人々の協力を取り付け、その地に適合する植物を探し出し、成長した木々を製紙会社に引き取らせて現地の人々が恒久的に植林を続けられる環境を作り上げた。その結果、かつては荒れ果てた砂礫の連なりに過ぎなかった土地が、緑に満ちた丘陵地に生まれ変わり、周辺での農業も可能となり、人々の生活はずっと豊になった。子供達が井戸で水遊びが出来るほど水は豊富になり、龍丸氏は「Green Father」と呼ばれ今も敬愛されている。
満丸氏は人目もはばからず、泣きに泣いてましたが、他人のおいらがTVで見ても涙が出る位だから、そらー涙が出るでしょうね。息子の自分も知らなかった親父の仕事の跡は、まるでおとぎ話のラストのように、すべてを包み込む美しい緑の山々。すべては忘れ去られても、龍丸氏が守り育てた緑の山並みと人々の生活は残る。男子が一生をかけた仕事の持つ壮絶さと美しさが作り出した、息子との和解。いい番組でしたね、全国版で再放送しないかなぁ。
藩閥政治打破、アジアの発展のために奔走した祖父『茂丸』、父に振り回されながら作品の中で独自の世界観を提示し、これからという時に亡くなった父『泰道』、反抗しながらも両者の意志を受け継ぎ、すべてをインドを含むアジアの発展のために捧げ尽くし、世に知られることなく亡くなった『龍丸』。その業の深さ故に、家族の愛に飢えながらも家族を置き去りにして、奔走し続けた、杉山3代の末尾を飾る知られざる巨人がもっと世に知られることを願っております。
参考文献
(1)印度をあるいて-ガンジー翁のあとをつぐ人々 杉山竜丸著 国際文化福祉協会発行
のちにインド緑化事業にすべてをつぎ込んだ龍丸氏の1962年11月末~翌年4月中旬までの約6ヶ月に及ぶ最初のインド訪問記。ガンジーの後継者達と交流を図った、半年間の間に体験したことが平明に綴られている。実際に乾期のインドの大地を徒歩で歩いて旅し、食生活を共にするなど龍丸氏の現地にとけ込もうとする積極的な姿勢と、彼を取り巻く「熱い」人たちが興味深い。なるほど、この体験がインドにすべてを賭けさせるきっかけになったのかと納得しました。その旅の中でも「インドのハイカーストの人々は生産的な仕事を賤視している」など、かなり早い段階でインドの持つ根元的な問題に気付いているのにも感心。父とも祖父とも異なる『エンジニアの視点』を感じさせますね。手に入りにくいとは思うけど、龍丸氏の生涯を押さえるにはぜひ読んでおきたい本です。あと、著者の書き込みがあるとのことでしたが、受け取ってみたら鶴見俊輔氏にあてたものでした。
(2)砂漠緑地化に挑む 杉山龍丸著 葦書房
龍丸氏が自分が人知れず(自らが興した国際文化福祉協会の人々にも秘密)行ってきたインドでの緑地活動についてまとめた本。西日本新聞に発表した「砂漠緑地化に挑む」という論文と第2回国際砂漠学会で発表した論文から成る。死の2年前に書かれただけあって、龍丸氏の行ってきた緑地化事業の総まとめ的感のある本。この本が今でも注文すれば手に入ることは一つの奇跡といって良い。いや、まじで。 当時、成功面だけが喧伝されていたインドでのグリーンレボリューション(GR)の大規模灌漑農業が引き起こす塩害について、すでに注意を喚起しており、その対策についても手を打っていたことがわかる。しかし、この提言は取り上げられず、インドばかりではなく、大規模感慨を導入した北米、ロシア、中央アジア、中国等で最近になって結局大問題になってしまっていることには、地下の龍丸氏も苦り切って居るであろう。また森林伐採を無くすには、森林を薪として切り、そのままにしなくて済むような経済環境を整備する必要がある、緑地化だけが砂漠化をくい止める手段ではなくダム等の近代設備の有効性を否定しているわけではない点など、今なお有益な指摘は多い。
(3)夢野久作の世界 西原和海編 沖積社
『夢野久作の生涯』ほか龍丸氏の著作が3編掲載されている。『T氏への手紙』のT氏はもちろん鶴見俊輔氏。軍隊でも高い評価を受けた久作が茂丸の取り巻き連中や、育ててくれた義母から馬鹿扱いされながらも、義母への恩義の念から、黙って耐えつづけていたことや、久作の描く『狂人めいた人物たち』や『尋常ではない出来事』が杉山家の人間にとっては「あぁ、そんな人居たよね。」って感じで、ほとんど実際にあったことが元になっているなど、身内でなければわからないことが多く描かれており、久作関連の資料としては当然ながら一級品。また、龍丸氏が父『杉山泰道』の祖父とまったく異なる『イライラする位、生真面目な生き方』、それゆえの苦しみや怒り、内に秘めた実際的な行動力を評価し、急死により父が実現できなかった理想の何割かを自分の人生の中で実現しようとしていた事が分かる。
(4)木を植えた男 ジャン・ジオノ著 F・バック絵 寺岡襄訳 あすなろ書房
フランス、プロヴァンス地方の荒れ果てた土地に一人で木を植え続け、ついには幸せと安らぎを生む村々と耕地へと再生させた男の寓話。偶然なのだが、主人公の生き方が龍丸氏とあまりにもそっくりなのでここにあげることにした。もっとも、家族に後ろ髪を引かれながらも、使命のために彼らを犠牲にしなくては成らなかった、龍丸氏の悲劇の方がより大きい気はするが・・。良くできた寓話なので一読をお薦めする。
(5)不可触民の道 山際素男著 三一新書
龍丸氏の緑地化事業に地元住民の協力がなかなか得られなかったのは、緑地化を行っている地域に住む人たちの多くが、「不可触民」と呼ばれるカーストの最下層(正確にはカーストの外)であり、何百年にも及ぶ差別と困窮が容易に人を信じないようにしていたようです。んで、不可触民の実体を日本人に伝えた、著名なインド研究家『山際素男』氏の不可触民もの第2弾がこの本。最初の本「不可触民」が、その存在のあまりの悲惨さにただ驚愕し、表面をなでるのみだったのに対し、この本では社会の暗部と正面から取り組もうとする姿勢に好感が持てます。(1)の本で龍丸氏が共に暮らしたヴィノーバー翁の晩年の様子と翁が率いた「ブーダン運動」のもの悲しい成果も書かれている。ここで出てくる手工芸研究所に龍丸氏も協力していたのだろう。あと龍樹老人の夢告を契機に、不可触民救済活動に挺身している佐々井秀嶺氏が凄いです。
(6)夢野一族-杉山家3代の軌跡 多田茂治著 三一書房
龍丸氏の弟で貧乏詩人の『参緑』氏と知り合いだった著者による杉山家3代の記録。茂丸-久作-龍丸-鐵児(次男)-参緑(三男)と書きつづってます。龍丸氏に出版されていない「幻の戦闘機隊」という本があること、昭和17年に近衛文麿や広田弘毅に戦争反対を説いたことなど新情報も多い。また緑地化の費用として4万5千坪もあった農場を売り尽くしたのですが、昭和55年に最後の千坪を売ったときには「まだ、5千万くらい借金があった。」そうで、満丸氏は父について「おやじは世界一愛すべき男で、世界一憎むべき男でした。」と語っています。そらそうだよな。なお、満丸氏のインド行きはこの本の出版後です。
(7)飢餓を生きる人々 杉山竜丸著 潮新書
『印度をあるいて』と『砂漠緑地化に挑む』の間を謎の部分を埋める作品。この本を読むと印度に関わるようになったのが本当に偶然が重なったためだということがよく分かる。また『インドの大地と底辺を知る技術者の目』で見たガンジー伝としても興味深い。ガンジーの象徴たる「チャルカ(糸巻き車)」が、実労働を軽視するインドのハイカーストの人々に生産の重要性を認識させる手段であり、また、技術者ではないガンジーが自作できた精一杯の「産業機械」と捉えている。そして、自分は本職の技術者として、時間はかかろうとも真っ当な形の産業技術を根付かせることで、ガンジーの果たせなかった思いを後世に引き継ごうとしている。その困難さも龍丸氏が誰よりも理解しており、文中の『人が物をつくるとき、その物は、人の考えで、できるのではない。人が、その物の本当の性質を知り、その物の性質に従い、そして自然の真理と一体となって、体得したとき、そのものは物としてつくることができるのである。』という言葉は、技術者、生産者として物作りの喜びと、苦しさ、無力さを経験した人物のみが語れる至言である。また、それまで技術移転にのみ関わっていた龍丸氏を緑地化事業に駆り立てたのは、多くの餓死者を出したと言われる1972年の大飢饉の際にみた、あまりにも過酷な大地と何も出来ない自己への憤りであったようだ。
(8)生きるかなしみ 山田太一編 ちくま文庫
『生きるかなしみ』をテーマに、シナリオライターの山田太一氏が選んだ短編集。メジャーな作家の作品に囲まれながら、龍丸氏の実体験に基づく作品『ふたつの悲しみ』は強い印象を残す。士官学校在校中に反戦運動を起こして憲兵に拘束されたり、特攻機の整備責任者として、米軍の爆撃を受けながら命がけで整備した機体が、戦友達を無為に死なせるために使われるのを見てきた龍丸氏にとって「平和」とは軽々しく語ることの出来ないことであり、7ページの中に込められている「大切な人を失ったかなしみへの共感」と「何も出来ない自分への自責の念」は、この文面から読みとれるものより遙かに深い。でも、それを知らずとも龍丸氏の心は十分読者に伝わるはず・・。この作品は中学2年生の道徳の教科書にも採用されているそうで、中学生が龍丸さんに興味を持って、ここに辿り着いたりしてくれると嬉しいなぁ。
(9)夢野久作全集7 夢野久作著 中島河太郎、谷川健一編集 三一書房
死後34年目に出版され、久作の実力を天下に知らしめた全7巻の全集。最終巻で編集委員の谷川健一氏が久作の奥さん「クラさん」&龍丸氏と対談してます。クラさんの落ち着いた人柄が印象的。以下のようなやり取りもあり、ちょっと笑えます。
龍丸:まぁ、子供の口から言うとなんですけども、人間的にはこのくらいりっぱな、明朗な、純粋な男はいなかったでしょう。それで生き抜いたと言えますね。(中略)非常に人に慕われた人間です。その点ぼくなんか親父から言うとだいぶ意地が悪いです。(笑)
クラ:それはそうでしょう。意地が悪いですよ。(笑)
龍丸氏が久作を「理想の父親」として捉えてるのが良くわかります。まぁ、倒れちゃうまで真剣に子供と野球をやってくれる親はそーはいません。氏も子供にはこういう父が必要だってことも実感としてわかってはいるんですけどねぇ。
(8)詩集 種播く人々 杉山参緑著 葦書房
龍丸氏の末弟、杉山参緑氏、唯一の詩集というか遺稿集。青年期以降定職を持たずに兄達の援助で暮らしていた、ちょっと不思議な人物。友人の菊畑氏による付録と次兄、三苫鉄児氏による後書きが資料としては重要。どうやら龍丸さんが当主時代の杉山家の家計状態は思ってたより、かなり厳しかったようですね。妻と子供が二人いて、さらに老いた母&弟を抱えながら、一円にも成らない事業に没頭し、参緑さんの住まいの100坪を残して土地をすべて手放してしまった様子は周りから見ると「火だるまのような急降下と暗さ」に見えたようで、これは龍丸さん以外の家族の『実感』でもあったんじゃないでしょうか。
(9)わが父・夢野久作 杉山龍丸著 三一書房
夢野久作の記録と言うよりも、龍丸氏による「三郎平-茂丸-直樹(泰道こと久作)-龍丸」と連なる杉山家の記録。龍丸氏が杉山家について系統的に語っている貴重な本であり、久作ファンはもちろん龍丸ファン(いるのか?)必読の本!!
久作が、義母「茂松」の取り巻き達によって、精神病院に押し込めることで、廃嫡(杉山家当主の権限を奪う)されそうになった体験が代表作「ドグラマグラ」に色濃く反映されているとの指摘はかなり恐い。龍丸氏自身も長い間監視下におかれており、士官学校に入ったのも「杉山家(茂松派)の監視から逃れるには軍の庇護下しかない。」との判断があったそうです。龍丸氏に伺える「人間不信」や「理解してもらう事への諦め」といった感は、こうした異常な家庭環境にあるのでしょう。
「私個人から申しますと、祖父茂丸、父夢野久作から受け継いだものは何かというと、この非情な人間社会に、非情になって生きるという事でした。」と言いながら、「今、私は世界中の砂漠を、一人で緑化しようと思っています。」と、他人の幸福実現ための無謀とも言える決意を語る龍丸氏を『杉山家は狂人すじだ。その狂人ぶりは、彼が狂人なのか、世界中が狂人なのかわからぬ狂人だ。』と紹介した鶴見俊輔氏の観察眼と表現力には感心。高かったけど、買って良かった~。
(10)百魔(下) 杉山茂丸著 講談社学術文庫
祖父茂丸の代表的著作で、彼の身辺にいた「魔人」としか呼びようのない型破りな人物達の記録。この下巻は実弟「龍造寺隆邦」と盟友「結城虎五郎」がメイン。龍造寺の項に茂丸が父から聞かされた杉山家の由来が語られる。それによると、「薩摩の伊集院の攻撃に対して、龍造寺の家老はこれに内通裏切りをなし、城に火を掛け一挙に主家を滅亡せしめ、その主君の後妻を入れて己が妻とし、子女を片端より殺戮せんと(中略)庵主の家祖はその長子すなわち嫡男にして、龍丸と云う者であった。」とのこと。子に家祖の名を付けた辺りに、自分こそ正統であるという久作の自負と、息子への期待の大きさが伺える。家祖の父で戦国期九州一の暴れ者『龍造寺隆信』についてはいつか書きますね。ちなみに講談社の創始者「野間清治」が頭山満等と親しかった関係から、この本が講談社から出版されたようです。野間清治は森寅雄の養父ですね。
(11)きまぐれフレンドシップPart2 星新一著 集英社文庫
星新一氏の書評、解説、エッセイなどを集めた本。なかに龍丸氏との対談をまとめた20ページほどの作品が載っている。龍丸氏を一般の人に紹介した数少ない記事であり氏の業績や思想を短い枚数に上手くまとめてある。実父の星一が茂丸の世話になっていたこと、星新一氏が職業作家になる際に応援した大下宇陀児氏が夢野久作の最大の理解者でもあったことなど一族の縁も深いこともあり、非常に好意的に書かれている。この本によると、当時の龍丸氏はインドの緑化事業が発展し、その緑を育てた下層カーストの人々が新しいインドを作るという希望を持っていたようですね。
(12)ルルとミミ 夢野久作著 西日本図書コンサルタント協会
龍丸氏プロデュースによる久作の復刻絵本。久作は児童向けの作品も多く書いているが絵本としてあるのはたぶんこれだけ。夕食の後に父久作の語る童話を聞いて育った龍丸氏にとっては思い入れの強い作品。推薦文は星新一氏による。
(13)夢野久作の日記 杉山龍丸編 葦書房
龍丸氏の手元に残る久作の日記を整理し、杉山家の写真と資料、内容の注解を付けた本。資料に杉山家戸籍謄本や家系図を載せているところに、龍丸氏のこだわりが感じられる。しかも、家系図「茂松(久作の義母)」の処だけ間違ってるし・・。これ、また問題になったんだろうなぁ。久作の年表など、他の本やHP等でも、よく引用されているが、龍丸ファンとしては、注解と後書きが楽しいところ。また、久作の悪筆を2年以上かけて清書された、紫村一重氏(久作の秘書兼同志)の労力にも感謝したい。
(14)雲に立つ-頭山満の「場所」 松本健一著 文芸春秋
龍丸さんの戦後の生き様は、茂丸→久作経由と奈良原至→久作経由の二系統で伝えられた、右翼団体と化す以前の初期玄洋社の精神を強く感じます。それは「一人で行け、正しいと信じたら」に集約される高山彦九郎的生き様と言えるのでは無いでしょうか。龍丸さん自身は、そんな風には微塵も思ってないでしょうし、こんなことを言ったら怒られてしまいそうですが、久作が父よりも頭山満よりも奈良原至の生き方を愛したように、龍丸さんもその様な生き方を良しとする処があったように感じますね。この本自体は頭山満の評伝ですが、玄洋社の思想史と歴史を知るには良い本です。星新一氏でも掴みきれなかった頭山満の全体像も上手く把握してます。題名は頭山満の号「立雲」からだけど、わかりにくいよね~。
(15)夢野久作-迷宮の住人 鶴見俊輔著 リブロポート
これまでに出された久作研究の内容を俯瞰した内容で、鶴見氏自身の思想というのは余り感じられない。どうやら久作が日本社会史、文学史にはたした役割について語りたかったようだ。龍丸氏の本からの引用が飛び抜けて多く不思議に感じたが、あとがきで龍丸氏の生涯と、彼との20年以上に及ぶ交流を紹介し、龍丸氏の著作「ふたつの悲しみ」の全文を載せてさえいる。「この本を、20数年、夢野久作のことを繰り返し語ってくださった 杉山龍丸氏に捧げる」で終わっており、両者の関係が疎遠になっていたのではと心配していたおいらは、ちょっと安心。重要な本ではないが、個人的には大変楽しめた本ですな。
なお、龍丸氏は「ふたつのかなしみ」の著作権を放棄しているとのことなので、全文を掲載しました。 鶴見氏はこの文章を龍丸氏の志と呼んでいるが、今回、書き写してみて、確かにここには龍丸氏の 戦後の生き方の根幹にあるものを感じましたね。
(16)陸軍特別攻撃隊(上)(中)(下) 高木俊郎著 文春文庫
陸軍によるフィリピンでの爆撃機特攻作戦の全貌を描き、その戦術的無意味さ、非人道性、指揮官達の卑劣を糾弾した書。この本にも、龍丸さんの所属していた第31戦闘機隊の記述はない。司令官を筆頭に将校クラスは、特攻用の機体が無くなり戦況が厳しくなると、兵を残したまま台湾へと移動しており、兵達がその後経験した地獄を知るにつれ、逃亡行為への怒りを憶えずには居られない。この時、命令とは言えフィリピンから去ったことで、龍丸さんや堀栄三氏ら一部の将校が罪の意識を抱えて戦後を生きたのも理解できる。
しかし航空本部自体が台湾に移ったのになぜ龍丸さん等が逆方向のボルネオ(しかも当時航空兵力を持たない)に向かったのかは謎でしたが、ご長男の杉山満丸さんに下記の話を教えていただきました。フィリッピンから脱出したのは、最後の輸送機で杉山を脱出させよと言う命令で同期生が機長として輸送機で迎えに来て、現地の参謀からピストルを突きつけられて乗せられたからだそうです。
父が脳溢血で倒れた時、広島から重い心臓病を押して同期生の方が訪ねてこられ、「自分が機長として迎えに行った。杉山の当時の部下は杉山が自分たちをおいて逃げたといまだに思っている者が多い。しかし、フィリッピンから脱出する前の年から杉山には内地への転属命令が出ており、後任も着任していた。戦場に慣れている整備隊長の杉山がいないと飛行機が飛ばないことを危惧して、飛行隊長らから頼まれ、また、杉山も今の状態で戦場を離れたくないとの思いからお互いに命令を握りつぶして戦場に残っていた。先に脱出した上官らからその事情を聞き、杉山が脱出してこなければ命令を握りつぶしていた自分たちも困るから必ず杉山を連れてこいと命令されて私は杉山を脱出させに向かった。そんな事情だから、後年あなたがお父さんの部下たちから批判されたとしても何も恥じることはない。お父さんは、部下のことをくれぐれも頼むと言って、後ろ髪を惹かれる思い出飛行機に乗ったのだから。」と言い残して帰ってゆかれました。だから、父は、行き先のわからないまま飛行機に乗ったのだと思います。
上官の命令というか強制で戦地を後にしないといけなかった龍丸さんにとっても、信じていた上官に裏切られたと思わずにいられなかった部下の方にとっても、それを承知で迎えに行かねばならなかった同期生の方にとっても、哀しいお話ですよね・・。同期生の方もこのことだけはどうしても伝えたくて、無理を押してこられたと思うと、胸がいっぱいになります。詳細は「幻の戦斗機隊」に詳しく記されていました。
(17)我が戦記-ボルネオ回想 青山敏男著 新風書房
ボルネオ本島パリックパパン攻防戦を生き延びた元海軍歯科医大尉による回想録。ボルネオはフィリピン攻略後のマッカーサーが率いる連合軍が終戦まで攻撃していた場所であり、フィリピン戦に負けず劣らずの激しい攻撃を受けていたことがわかる。著者は軍医でもあるため、当時の最低以下ともいえる医療事情と傷病兵の悲惨な最期の姿を克明に伝えている。この状況の中で銃弾を受け、輸血によりマラリア他の病気に感染していた龍丸さんが連合軍による爆撃や負傷部にたかる蠅の大群、食糧事情の悲惨な収容所生活を乗り越え、生き延びたことは信じられないような奇跡である。著者のような青春時代を戦場で過ごし、多くの友人達を無くした人ならば、靖国神社へ戦友達に会いに行く気持ちも分からないでもない。著者や同期生による歌が多く挿入されており、最初は冗長だが慣れるといい感じ。同期生の作った「戦友の歌」を下記に引用する。
靖国の森に 春来れば相寄り 朝日に匂へる 梢のつぼみは
限りなく青き、空よりも清く 恋もせで散りし 同期の桜
(18)グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑に変えた日本人・杉山龍丸の軌跡 杉山満丸著 ひくまの出版
龍丸さんの生涯と業績を綴った本がついに出ました!!著者はご長男の満丸さん。九州朝日放送制作のTVドキュメントでの旅がベースになっています。龍丸さんを紹介する上で欠かせない「茂丸→久作→龍丸→満丸」とつづく杉山家の歴史もわかりやすく紹介されており、なによりこれまで書籍で紹介されることの無かった龍丸さんのインドでの業績が「カラー写真」で掲載されているのは必見です。砂漠や砂礫の山が緑の大地と化している姿に感動しますが、何より龍丸さんがインドの人たちから非常に尊敬され、愛されている(現在進行形)所に感激。「インドの緑の父はスギヤマさん。あなたのお父さんはグリーン・ファーザーです。あなたのまわりの緑たちは、すべてあなたの兄弟です。」と、満丸さんに告げるインドの人達のなんとすてきなことか。
広範囲な内容をわかりやすくまとめてあり、子供から大人まで楽しく読むことのできる良い本です。みんな、ぜひ読んでくれ~い。
(19)明治の人物誌 星新一著 新潮文庫
星新一氏による「百魔」ともいうべきこの本のラストに杉山茂丸の孫として龍丸さんが登場。全世界の砂漠緑化という夢のようなスケールの理想に向かって、インドでの緑化活動を押し進める龍丸さんを、怪人ではなく理想と現実のバランス感覚の正常な人物として正当に評価、紹介している。星新一氏に、龍丸さんの事業を実際に見てもらい、氏の筆力で紹介して貰いたかったなぁと、しみじみ思います。
(20)夢野久作ワンダーランド 西原和海編 沖積舎
若い人達への夢野久作の入門書として、これまでの重要な久作論を取り上げ、新たにインタビューや久作自身のイラストを載せた本。龍丸さんの死後の編集のためか、龍丸さんの文章はない。ファンの間でも評価の高い、松本俊夫監督の「ドグラ マグラ」を撮るきっかけになったのが、監督と龍丸さんの出会いであり、シナリオ段階での博多弁のチェックは満丸さんが行っているとのこと。これは見ない訳にはいくまい。
(21)九州文学(昭和47年6月号) 九州文学社
龍丸さんによる「父、夢野久作の思い出」が掲載されていた、九州の文芸同人誌(らしい)。どんな雑誌に載せていたのか興味があって入手したのだが、わずか58pの小冊子。龍丸さんの文章は名著「わが父・夢野久作」に直接連なる、かなり気合いの入った作品だが、この小冊子が売れてたかどうかは、ちょっと疑問・・。ちなみに、この雑誌掲載の文章は(3)の本で読むことが出来るので、そっちで読みましょうね。(更に調べてみると、九州文学は戦前、戦後において九州だけで無く、東京の文学界にも大きな影響力を持った雑誌と判明。勉強不足でした。)
(22)幻の戦斗機隊 杉山龍丸著 未刊行
この世に10部ほどしかない「幻の戦闘機隊」を見つかったからと、満丸さんが送って下さったのです!!しかも、これ出版物じゃないです。A4の簿記用ノ-ト300枚一杯に書かれた、龍丸さんの手記をワープロ打ちしたものを、クロス製本しているだけ。そこから立ち上る情念、書かねばならないという思いがひしひし伝わってくる超ヘビーなアイテムです。満州からフィリピンへの転戦、輸送船の沈没、フィリピンでの戦闘、軍の崩壊過程、フィリピンからの脱出と他の本では、知ることの出来ない貴重な情報がみっちり詰まってます。龍丸さんの著作の中でも、読み物としての面白さは一番じゃないでしょうか。この本をもっと多くの人に読んで貰いたいのですが、出版はなかなか難しかったとのこと。そこで満丸さんにご相談したところ、電子化の許可をいただきました。!! HPで紹介すべく鋭意TEXT化中。
(23)日本中が私の戦場 佐藤行通著 東邦出版社
龍丸さんをインドと関わる最初のきっかけを作った人物。陸軍航空士官学校の同期生訓練中の事故で眼を傷つけ、技術将校に転換。戦時中は航空無線の研究に従事。終戦時無条件降伏に反対して航空士官学校に決起を促すなど奔走するが、同志ら13名は宮城前で自決。戦犯として拘束されるのを避け、将来軍を復活させることを考え、地下に潜るつもりで日本山妙法寺にはいるが、そのまま坊主となり、平和運動家、三里塚空港建設反対運動の非暴力派リーダーとして活躍した人物。この人はこの人で、龍丸さんに匹敵するべらぼうな生き方を選んでいる。この本には龍丸さんは直接出てこないが、佐藤氏の依頼で龍丸さんが陶器作りの指導を行った「ミルミラー君」がちゃんと登場し、確かに関係があったことはわかります。
(24)わが非暴力 藤井日達著 春秋社
佐藤行通上人の師で、日本山妙法寺の創設者。戦後は世界中に平和祈願の宝塔を建てる活動をしている。佐々井秀嶺師が参加した多宝山の仏塔もその一つ。日蓮の西天開教(日本の仏法は必ずインドに帰る)を実現するため、昭和5年にインドへわたり、ガンジーの塩行軍にも参加するなど、独立運動の貴重な目撃者として、インドと戦前から関係を持った。「インドを歩いて」で書かれるように龍丸さんの最初のインド訪問にも同行した。ゴーイングマイウェイで権力に屈しない、魅力のある人物と思うが、あくまで宗教家であり、技術者という実務家にして、宗教、哲学、思想関係の人々に絶望している龍丸さんとは、当初から意見の食い違いがあったようだ。とはいえ、戦前戦後の日印関係を語る際には外すことの出来ない人物である。
(25)部落解放史ふくおか第14号(1979年2月) 福岡部落史研究会編集発行
実弟の三苫鐵児さんが編集委員を務める、福岡部落解放運動の機関誌。久作は自らが絶望的な疎外感を抱いているが故、当時としては驚異的に差別意識のない人であったが、息子二人がそれぞれ別の形で差別と向き合って生きることになったのは興味深い。第12号の特集「インドの不可触民を考える」への龍丸さんの感想(私信)が、たぶん鐵児さんによって転載されている。龍丸さんは、批判の多いガンジーの不可触民政策やブーダン運動に対して、差別廃絶の不徹底さ等の問題があるにせよ、一定の評価をしている。また、あくまで傍観的立場に立つ日本山妙法寺(=藤井日達師)に対して、厳しい批判の目を向けている。これは宗教者としてのポジションを固持する妙法寺と実績的社会改革運動家である龍丸さんとのインドへの関わり方に対する根本的な対立であり、妙法寺と佐々井秀嶺師の対立と同様な構造が伺える。インドに関わるきっかけになった妙法寺との、その後の関係を知ることの出来る資料は少なく、貴重かも。
(26)隼のつばさ-比島最後の隼戦闘機隊 宮本郷三著 光人社NF文庫
龍丸さんの第三十一戦隊の兄弟隊である第三十戦隊の戦闘機搭乗員によるフィリピンでの敗戦、投降までの記録。「幻の戦斗機隊」で龍丸さんが記述している経験を共有している為、非常に興味深い資料。歴史に記されていない、陸軍最初の特攻「カン作戦」や絶対的な戦闘機数の不足、航空機の消滅による戦隊の崩壊や、龍丸さんの懸念していた補給部隊として戦闘機隊が自活していくための苦労などが描かれている。龍丸さんの駐屯したファブリカ基地の場所もこの本で判った。また、最初の神風特攻隊の隊長として知られる海軍の関行雄大尉が生存しており、著者らがマニラで出会った話なども、非常に興味深い。
(27)史学雑誌(第99編 第4章) 史学会 東京大学文学部内
弘前大学助教授 林明氏の修士研究ノート“1970年代インドにおける「全面革命」運動の展開とその歴史的意義“を掲載。「インドを歩いて」で、龍丸さんを農民達の中へエスコートし、その知性と指導力、実行力で強い印象を与える、J.P.ナーラーヤンが指導した全面革命運動について記してある。J.P.について日本文で書かれた資料は少なく、貴重。J.P.のヴィノバ翁との決別、運動の草の根的展開、非常事態宣言、野党による政権奪取への運動のすり替わりと消滅過程が関係者へのインタビューを含め好意的に書かれている。J.P.の生い立ちや死が書かれていないのは残念ですが、運動の展開過程はよく分かりました。龍丸さんは、運動の理念と実際の行動がかみ合った最も良い時期に、大地からわき上がる人々の情熱を体験することが出来たことのですね。J.P.自身非常に興味深い人物で、龍丸さんとJ.P.のその後の関係についても調べていきたい所です。
(28)西の幻想作家 杉山龍丸著 九州文学社
龍丸さんがこれまで語られる事の無かった、久作の精神風土や背景について記した作品。九州文学に11回にわたって掲載された。久作の母「高橋ほとり」や茂丸の別荘で三角こと「其日庵」の造作、「杉山農園」、久作の精神風土など、他では知ることの出来ない貴重な情報を多く含むが、単品での出版が成されていないため、読むことがなかなか難しい。おいらは、近所の図書館経由で福岡県立図書館に複写して貰いました。図書館の人、コピー大変だったと思います。感謝です。茂丸の選挙干渉ネタなど、百魔等からの単純な引用のため、史実とは異なると思われる記載もあるが、常に民衆側に立つ龍丸さんから見て、こうあって欲しかった茂丸像なのかなとも思う。幕末から昭和にかけての日本史と、福岡の郷土史と杉山家の歴史、思想の根元を深く絡ませて語っており、茂丸や久作から龍丸さんが継承した内容が多く含まれている。久作や茂丸、龍丸さんに興味のある方には、ぜひ読んで貰いたい作品ですね。
(29)夢野久作の場所 山本巌著 葦書房
西日本新聞文化欄の連載記事を基にした、代表的な久作論。読みやすく、久作の硬派な面の資料がちゃんと押さえてあり、さすがに評判が高いだけのことはあると感じさせる内容。個人的には、政党政治への絶望と個人主義の急速な流入で、これまでの共同体(町とか村内部の付き合い)から切り離され、社会の中に一人で放り出されることへの不安と恐怖が、大正デモクラシーやアナーキズムへの反動として、国体の名の下への一体化と、政党政治の否定としての翼賛政治を受け入れる下地になったという捉え方が興味深かったです。あとがきにある、夢見るような茫洋とした風貌の詩人(参緑さん)、温厚な紳士だが内に相当激しいものを秘めた教育者(鉄児さん)、玄洋社の生き残りを思わせる眼光の鋭い、ちょっと異様な存在感のある男(龍丸さん)という、久作の息子たちの描かれ方も興味深いですね。
(30)あ丶疾風戦闘隊-大空に生きた強者の半生記録 新藤常右衛門著 光人社NF文庫
著者は心臓すげーえもんの異名を持つ明野飛行学校の名物教官。隼(一式戦)では、まったく歯が立たなくなっていた、F6F、P51、P38、B24など連合軍の新鋭機へも対抗できる陸軍の新鋭重戦闘機「疾風(はやて、四式戦、キ84)」の部隊を率いてフィリピン戦に参戦。龍丸さんが明野飛行学校の整備兵の訓練内容が緊迫した戦場での実情と合っていないと、大喧嘩した相手の一人であり、戦場のフィリピン、サラビア基地にて再会することになる。龍丸さんの懸念は、新藤飛行隊長、冨永司令官、龍丸さんの目前で飛行場に並んだままの20機の四式戦の内14機を破壊されるという形で現実のものとなる。(300~306p、ただ、この本には龍丸さんの名は出てこない。)訓練の不首尾と新たな補給が無いため、昭和19年8月24日に明野飛行場を発った最新鋭部隊が3ヶ月で事実上壊滅してしまうなど、日本陸軍の部隊運用の不合理性を認識させてくれる。本著は、気球部隊から始まる黎明期の飛行気乗りの記録としても、非常に面白くお奨めです。
(31)昭和研究会-ある知識人集団の軌跡 酒井三郎著 講談社文庫
近衛文麿の政策ブレーン集団である昭和研究会とその主催者「後藤隆之助」について、昭和研究会に設立から関わった、酒井三郎氏が記録した著。支那事変収集への動きや、南京陥落時の軍中央の状況、近衛の死など、貴重な昭和史の記録と言って良い。後藤が一時、茂丸の元に居候していたなど、杉山家と関係が深いこともあり、龍丸さんとも深いかかわりがあった。日米開戦が不可避の状況になってからは、ボルネオなど南洋の石油を航空機を用いて日本に運ぶ研究を龍丸さんに指示するが、国の最高指導者の側近の経済、科学への無知さに暗然としたことが「幻の戦斗機隊」に書かれている。まぁ、後藤自身は組織運営者であって、経済学者でも科学者でも政策立案者でもないので、あまり責めるのは酷か。また、後藤が三国同盟への反対、シンガポール陥落直後に戦争を終結させようと活動しており、これらは陸軍技術士官学校で龍丸さんが行っていた活動と一致している。「幻の戦斗機隊」で取り上げられている最大の謎、龍丸さんが参加したという、「昭和16年、東条英機暗殺計画」の鍵を握る人物であると思われる。
(32)佐藤寛子の宰相夫人秘録 佐藤寛子郎著 中公文庫
龍丸さんの業績を認めてくれた数少ない日本人高官「佐藤栄作元首相」の奥さんによる回想記。国際連盟で活躍する長兄(のち海軍中将)、商務省のホープである次兄(岸信介)と比べると、華やかさには欠けるが、堅実で頑固な男の姿が、共に苦労を重ねてきた最近親者の飾らない視点で描かれる。また、著者は松岡洋介の姪であり、常に日本を戦争に引き込んだ悪役として描かれる松岡の家庭人としての側面が描かれており貴重。
龍丸さんに緑化の成果を国際学会で発表するように要請したのはノベール平和賞を受賞し、本人もアムネスティの会員になるなど国際的に活動しようという意識の高まっていた1974年末から1975年にかけてと思われるが、同年5月13日に料亭での会合で突然倒れ、昏睡状態のまま6月3日に亡くなった。前日までゴルフに出かけていたほど元気だったので、家族にとってもあまりに突然の死であった事がわかる。栄作の死により、緑化への国からの援助の可能性が失われたことを思うと、当時の龍丸さんの無念を感じずにはいられない。
(33)インドの叫び ラス・ビハリ・ボース著 三教書院
インド独立運動の為、英国総督への爆弾闘争とラホールにおける武装蜂起の指揮により、インドを離れ、日本に渡ってきた革命の士による、英国インド支配史。英国政府の要請を受け、身柄引き渡しを迫る日本政府に対し、頭山満を首謀者とする民間人の手により、新宿のパン屋「中村屋」に匿われることとなった。後に中村屋の俊子さんと結婚し、日本に帰化した。一般には革命の士としてより、日本に正統派インドカレーを伝えた人物として有名。今では中村屋のカレーはレトルトでも売ってますね。なぜかビーフカレーとかあるけど。
英国インド支配史は、ボース氏の原稿を元に、日本語に直した協力者がいたのでしょう、かなり専門的な内容で勉強になります。ちなみに、所有の本は中村屋の当主、相馬愛蔵氏が東大寺図書館に寄贈した本で、いろいろ援助してるんだなぁということがわかります。頭山邸から中村屋までの逃避行に、祖父の茂丸が車を提供するなど協力していた縁で、幼少の龍丸さんはボースと面識があり、インドへの関心の芽生えは、ボースから語られた故郷の話にあったことを思うと、避けては通れない興味深い人物です。
(34)佐藤栄作日記-第五巻、第六巻 佐藤栄作著 朝日新聞社
佐藤栄作元首相の日記ですが、龍丸さんは2箇所に登場します。5巻1973年3月23日に「久々に草場毅君が杉山龍丸君(茂丸翁の孫)と一緒に来てインドの開発計画をのべる。力を貸すに値する仕事か。」とあります。栄作自身も、結構乗り気のようですし、対応も好意的に感じました。満丸さんによると“草場さんは西日本ハイウェイサービスだったと思います。昨年奥様から連絡をいただき線香を上げに行きました。父のよき理解者だったようです。何回かお会いしたことがあります。“とのことです。これからは龍丸さんの協力者の方達についても、調べて行きたい所です。もう一日は、6巻1975年2月10日にホテルオークラで会ってるようで、このときはインド製の焼き物(ミルミラー君のか?)を渡してます。また龍丸さんの名は出ませんが緑化に関する記載がある日が1日ありました。栄作は1975年6月3日に急逝しますが、直接的な政治力は減退したとはいえ、毎日多数の陳情を受け付けており、官公庁への影響力は、まだまだ健在だっただけに、その後、政府系の支援が途絶えた事を思うと実に残念なことです。しかし、首相引退後の栄作って、ゴルフばっかりやってるんですよねぇ。事実上のご隠居とはいえ、国会議員の給料は税金から出ていることを思うと、ちょっと納得いかないのはおいらだけでしょうか?
(35)回想の人びと 鶴見俊輔著 潮出版社
80歳を超え、死を身近に感じている鶴見さんが今は亡き友人たちについて綴った本。少数派の矜持を持って生きた人達への激しくは無いが情感のこもった文章が良く、資料としても貴重と思います。龍丸さんは、親戚で戦中戦後を神道に基づく民族主義者として生きた葦津珍彦さんの項で、「ふたつの悲しみ」の繊細なイメージとはかなり異なる、実直だが激しい非常に敵の多そうな人物として登場。高度成長時代の流れに逆らい、財産すべてをインドと緑化事業につぎ込んで、ほとんど無財産になっていた龍丸さんの生涯を「壮挙と思う」と記すと共に、「ロマンティックな暴走」という単純な賞賛ではない、ある種非情さをも含む言葉で表現している。ちょっと寂しいですけど、これはこれで率直な評価とも思います。とすれば、ロマンティックな暴走という表現はかなり昇華された思いが込められているということでしょう。「正しいことをやり通して何が悪い!」という思いも知りつつ、時代の二歩くらい先を進む龍丸さんを諦めに似た感情で描写したように思います。“とは、友人の感想。おいらも、そう思います。
(36)声なき声のたより第1巻、第2巻-復刻版 思想の科学社
60年安保改定の強行採決に反対する形で誕生した、緩やかな提携から成る市民団体「声なき声の会」会報の復刻版。初めて市民運動に参加した普通の人々の声が数多く記載された戦後史の貴重な資料であり、ベトナムの反戦運動の衰退と歩調を合わせるように、自分の過去の体験を語り始めた投稿者の一人として、多くの龍丸さんの文章が掲載されている。おいらにとってはまさに宝の山!<たより>の中の文章は自由に掲載して良いとの事ですので、龍丸さんの文章を年代順に掲載させていただきました。後世へ残す記録として合本、復刊された本書解説に長年代表を勤められ、2003年2月3日に亡くなられた、小林トミさんにより、“この本は二度と戦争を起こさないように平和を願いつつ亡くなられた「声なき声の会」の多くの方々に捧げ、心からのご冥福をお祈り申し上げます。“と記されています。
(37)資料ベ平連運動-上巻 ベトナムに平和を市民連合編 河出書房新社
ベ平連の活動を上、中、下の3巻にまとめた資料。龍丸さんは、いきなり資料の一番最初のページに21名の呼びかけ人の一人として名前があがってます。その後合計5箇所に名前が出てきますが、肩書きの変遷がちょっと謎です。
①呼びかけ:1965.4.15、5p・・・ 杉山龍丸(玄洋社国際部長)
②「ベトナムに平和を!」そして「歴史の一瞬」への呼びかけ:1965.5.22、16p・・・杉山龍丸(人形商)
③共同宣言:1965.5.22、18p・・・杉山龍丸
④「平和の船を送ろう」:1967.7.17、238p・・・杉山龍丸
⑤月のうち一日をベトナムのために!:1967.10.15、241p・・・杉山龍丸(団体役員)
玄洋社はGHQに解体されていますから、①は自称でしょうか?②はプラスティック製の博多人形を作って事業化しようとして失敗した事があるそうですので、その頃でしょう。⑤は龍丸さんが設立した、国際福祉協会の事だと思います。つーわけで、1967年まではべ平連運動に関与していた事が判明。1971年の「たより」では、すでに運動から離れているようですので、インドの活動へ注力した事で国内での反戦運動からは離れていったようです。(玄洋社はGHQに解体されたわけではなく、最後の社主である進藤一馬氏によって封印されたとの事)
(38)「べ平連ニュース」「脱走兵通信」「ジャテック通信」合本縮刷版 ベトナムに平和を市民連合編 ベ平連刊
基本的には(37)を補足する形のベ平連関連資料。龍丸さんは1966年9月1日発行のべ平連ニュース“日米市民会議開く”に日本側参加者61名の一人として名を連ねている。杉山龍丸(玄洋社常務理事)となっているが、文中の(職業もしくは肩書きはそれぞれの方の御返事のはがきにあったものに主としてよりました。)という記載から考えると、龍丸さんはある時期「玄洋社の生き残り」または「後継者」という意識を持って、生活されていたのではないかと思います。
(39)飛行第三十一戦隊誌 飛三十一友の会編 ヒューマン・ドキュメント社
龍丸さんの所属していた「飛行第三十一戦隊」の設立から解散までを記した戦隊誌。龍丸さん死後の刊行だがフィリピン戦以降は「幻の戦闘機隊」他、龍丸さんの文章が多く引用されている。扶桑丸の沈没漂流中に気力が萎えそうになっていた時、軍刀を背負い、きちんと帽子のあご紐まで締めて毅然と漂流している龍丸さんを見て元気が出たという並木軍曹の回想や、整備隊長になる直前は兵器係監督将校というデスクワークをやらされていた事、フィリピンでは整備隊長で大尉という事もあって、戦隊内でかなり強い発言力を持ち部下に慕われていた様子が伺える。このことが逆に、残存部隊の脱出が事実上不可能になった情勢下で、龍丸さんが上官の命令とはいえ、自ら率いる第一次、第二次の整備隊グループを残してフィリピンを離れたことが、残存隊員の中に大きな不審や不満を残した原因にもなったものと思われます。隊史に書かれた背景や龍丸さんの証言は「戦隊幹部のネグロス島からの転進」に記します。隊の正史にも龍丸さんの正当性が記されていることに安心すると共に、やはり本人も限界を感じていたのだなぁと知りました。
(40)国際技術協力の哲学を求めて 川喜田二郎編 名古屋大学出版会
日本ネパール協会初代会長、植生気候研究の泰斗、いまは発想法としての「KJ法」の創始者、移動大学の推進者として著名な川喜田二郎氏を座長とする“海外技術協力についてのシンポジウム“の記録。この講演で川喜田氏は植生の研究が戦後の混乱期に体験した食料問題解決への糸口としたかったという思いや、技術協力成功の鍵は実際に現地に立って地元の人達のニーズを先入観無しにじっくり時間をかけて捉えることにあること。技術支援の最終目的は、その活動を通じて地域住民を核とする地域社会が活性化し、活動を発展継続させていくことにある。そのためには、創造性という人間の根幹欲求を満たすことの出来る「夢やロマン(イメージできる将来のビジョン)」を示し、共有する必要があると述べています。満丸さんから「川喜田二郎さんと父は肝胆相照らす仲でした。」と伺っていたが、なるほどこの二人は考え方や実行を重んじる現地主義だけで無く、社会に対する視点と言うか立っている場所が非常に近いように感じました。龍丸さんの小冊子群を読むと川喜田さんの影響が感じられるものもいくつかあり、追々紹介できればと考えてます。(いや、頑張りますよ。マジで)
(41)大正美人伝-林きむ子の生涯 森まゆみ著 文春文庫
九条武子、柳原白蓮と共に大正三美人と称された林きむ子の生涯を描いた作品。きむ子の養家が頭山満や杉山茂丸が個人事務所としていた「浜の屋」だったこともあり、特に茂丸からは和歌や学問の教授だけで無く「泥のなかに咲く蓮も、水上の美しさより、隠れた根の方がずっと長く立派で、そこにこそ真実の力が潜む」と教え諭される。茂丸ら玄洋社系民権論者の根幹ともいえる、体感的で地に足のついたこの思想は、時代の荒波にもまれ時には正面から抗ったきむ子を折々に支えたものと思う。文中では骨太で複雑多岐な茂丸を描く際に龍丸さんの文章が多く引用されている。茂丸も実に立派な人物に書かれており、ある意味そのとおりだと思うが、他人の娘をそこまで気遣う暇があるなら、田舎の家族の面倒もちゃんと見ろよ~って気がしないでもない。
(42)日本探偵小説全集4-夢野久作集 創元推理文庫
「瓶詰の地獄」「氷の涯」「ドグラ・マグラ」という久作にとっての真の代表作で構成された日本探偵小説全集の第4巻。巻末に龍丸さんの文章「夢野久作の作品について」を付録として掲載。10年かけた畢生の大作ドグラ・マグラの主題を中学生の息子(龍丸さん)にすっきりと総括されたうえ「お父さま、それでも、この阿呆陀羅経は長すぎるよ。」とまで指摘され、がっかりするやら、閉口するやらしている久作が可愛い。「お父さまの小説は、一般の読者が泣いたり笑ったりするものではない、理屈の多かっちゃん」というクラ夫人の叱責も全くフォローになってなくて凄い。「わが父 夢野久作」と同様、久作と彼の作品に対して龍丸さんの抱いている誇りが伝わってくる小文。比較的メジャーな本にもかかわらず、編集後記と検印の後ろに掲載されていたので、ご指摘を受けるまで掲載に全く気づいていなかった事は秘密だ。
(43)爆弾太平記-夢野久作全集6 夢野久作著 ちくま文庫
兄茂丸によって盟友結城虎五郎へ渡す朝鮮漁場開発資金五百円と引き換えに叔父の家に養子に売られたと「百魔」に記されているのが茂丸の末弟林駒生。後に自身も朝鮮半島の水産開発に尽力した彼(文中では轟雷雄)を語り部に爆弾漁業とその利益に群がる資本家、役人らの強欲と非人道ぶりを軽快な語り口で糾弾する、深くは無いが悪く無い作品。文中で語られる「イザ戦争となると直ぐに肉弾をブッ付ける。(中略)油断すると爆弾を積んだ飛行機を敵艦にブッ付けようかという、万事、極端まで行かなければ虫が納まらないのを、大和魂の精髄と心得ている日本人だ。」という久作の予言は、息子である龍丸さんの代に、最悪の形で的中することになる。林駒生については、坂上さんの「夢野久作をめぐる人々」を参照のこと。
(44)歌文集-柳州山河 桑原廉敬著 文藝書房
桑原氏は龍丸さんの福岡中学時代からの友人。2003年10月5日にご自宅に伺い直接お話を聞かせていただきました。陸軍甲種幹部候補生から特攻要員として選抜され、操縦士に転科。偵察直援機操縦士として中国を転戦し、戦後は東京で通信社を経営されています。龍丸さんにとっては、心情を吐露することのできる友人であり、戦後すぐ(昭和23年頃)から、上京するたびに桑原氏のもとを訪れては、苦闘や夢を語っていたとの事です。玄洋社四代目社長にして福岡市長を勤めた進藤一馬氏に師事していた関係から戦後の玄洋社に詳しく、進藤先生が玄洋社を一人胸の中に納め、郷土のため野に朽ちる覚悟で封印したことを知ることができました。「桜木を愛するような自然な感情の発露としての郷土愛、愛国心」や「すべての命あるものとの調和を求め、感謝し祈る神道の心」など進藤先生の教えや桑原さんの体験に基づくお話に、戦後の愛国心などというものは教養のある人間が口にするものではないと思っていた身には「そうか、自然な感情としての祖国愛というのはありなのか」と目から鱗でした。進藤先生の覚悟を持った生き方は「戦中戦後を草莽の志をもって生きてきた」と語る桑原さんや龍丸さんの中にも息づいているように感じました。いや、ほんと為になりましたし、感動しましたわ。中国の飛行場で何気なく草の穂を摘もうとしたときに、この草も俺と同じはかない命だと気づき、ならばせめて自らの場所で精一杯実ってくれよと祈った歌「草の穂を摘みなむとしていたはりぬ実らざらめや命なりせば」の中に桑原さんの深みのある落ち着いた人柄が伺えます。
(45)夢野久作読本 多田茂治著 弦書房
「夢野一族」の著者でもある多田氏の新著。久作に興味を持った初心者層を対象に強大な父茂丸との相克や独自の世界観などをわかりやすくまとめた著。正直新しい資料はほとんど無いが、かなり理路整然とまとめられているので、入門書としてはお奨め。個人的には篠崎仁三郎の写真に吃驚。この人は久作の創作と思ってました。出版社の弦書房さんは葦書房から出た人たちが作った会社。経営は大変と思いますが今後も杉山家関連の出版をお願いしたいものです。
(46)比島からの碧き飛行機雲 青木滋一著、喜多照子編 文芸社
著者が龍丸さんの所属していた隊の兄弟隊「飛行第三十戦隊」所属だったので購入。航空作戦立案時に必要不可欠な陸軍気象部隊の精鋭将校としてフィリピン戦に派遣された著者が、内地で想像していたのを遥かに超える混乱と無気力に支配された戦場で、瞬く間にやる気を失ってしまい、敗走による混乱の中何とか自分だけは生き延びようとひたすら逃げまくるちょっと変わった戦記。自分でもどうしようもないので正気を失い理不尽の塊になっている参謀や重傷者を前にしてもまったく働く気の無い軍医(←こいつは元々カス)など、真っ当な人間でも想像を絶する混乱の中に置けば実に短時間で駄目駄目になっていくのが良くわかる。特に何とか飛行機でフィリピンから脱出しようと、パニックに陥り、あがく将校達の理不尽振りが興味深い。表紙はめちゃめちゃカッコいいですが、全体的にはそれほど面白い本じゃなかったです・・。
(47)劇団ファン☆ファーレ第四回公演-GREEN☆FATHER(030413版) 鶯谷さくら子作、演出
公演の後で、作、演出の鶯谷さくら子さんから頂いたG☆Fの台本。(ありがとうございます)戦争の悲劇、自分の無力さへの怒り、異国の地での先の見えない活動への苦悩、家族との葛藤と秘めた愛情、親子の和解など充実した内容です。しかし実際に見た公演を思うと、役者さんだけでなく、音楽や美術、照明、公演を支える裏方さんの努力など、演じているその瞬間にしか存在し得ないお芝居というのが、それらを含む総合作品なのだなぁと実感したしだいです。色々あるとは思いますが、皆さん、頑張ってくださいね。
(48)朝日新聞 2003年4月5日号
米軍によるイラク戦終盤、バクダッド攻略も間近にした4月15日、天声人語でちくま文庫「生きるかなしみ」に掲載されている龍丸さんの「ふたつの悲しみ」が紹介されている。抜粋ではあるが、大切なところは伝えられていると思います。昨年以降に龍丸さんを知った方の多くは、この天声人語がきっかけだったのでは?おかげさまで「生きるかなしみ」も本屋に平積みされるようになって、ひそかに喜んでおります。新聞は母が隣人からわざわざもらって取っておいてくれたものを強奪。ありがとう、母、そしてちょっとごめん。
(49)彦九郎山河 吉村昭著 文春文庫
いまだ幕藩体制が微動だにしない江戸中期にあって、幕府が武力背景として我がもの顔に政治を行うのは日本の国のあるべき姿ではない、天皇を中心とした(建武の中興のような)政治体制を実現すべきだと信じ、誰に頼まれたわけでもないのに尊皇の志を全国に説いて回った人物。その志の為、家族を置いて奔走。常識人であり学問をする上でのスポンサーでもあった実の兄から迫害を受け、最後は幕府の圧力により自刃に追い込まれる。自らが正しいと信じたことの為、人から「狂」といわれようとも邁進する姿は、草莽の志士の原型として後世に大きな影響を与えた。玄洋社の流れを汲む人たち(龍丸さん含む)も、幾分かは彦九郎を意識していたことと思う。彦九郎の日記を基に書かれた本著では、エキセントリックな人物ではなく、あの前野良沢からも信頼される、落ち着いた芯のある知識人としての彦九郎が描かれている。
(50)自立する世界、蘇る文化 西川潤学習対談集 ダイヤモンド社
1975年発行の早稲田政経学部助教授(当時)西川潤氏の対談集。第三世界への支援のあり方について国際文化福祉協会を設立して20年になる龍丸さんの対談が含まれて居ます。ガンジーの死後、アシュラムが本来の目的である、インドへの地域に密着した農業、手工業の普及という役割を見失い、政府の援助で安楽な生活の送れるガンジー記念館と化してしまったこと、商品化も食料にもならないユーカリの植林だけでは地域住民の緑化意識を育てることが出来ないと認識しており、一年生のマメ科の植物と30年かかるチーク材の間を埋める商品化可能な植物として、食物、パルプ材料として役立ち成長も早いモリンガにようやくたどり着いたことなどが語られる。インド最上流とも最下層とも親交のある地に足を付けた長年の活動を背景に、経験と冷静な分析による厚みのある意見が対談相手の西川氏を圧倒している。近代的高炉が必須である製鉄、手工業での製造が可能な鍛冶業を明確に分けて論じている点は、中国の大躍進時代の悲劇を知る今から見ても優れた知見です。もう、書籍では龍丸さん関連は無いだろうと思ってましたが、まだあったうえ、中身も面白かったので非常に嬉しかったです。
(51)思想の科学No.56-1966年11月号 思想の科学編集委員会編
鶴見俊輔さんが発行者を務める「思想の科学」のうち、龍丸さんの「夢野久作の生涯(上)」が掲載されている号。硬派な雑誌だろうとは予想していたが、予想よりさらに硬派でした。この雑誌は学生には理解するだけの社会経験が無いだろうし、社会人だとここまで踏み込んで考える余力が無いよなと感じました。龍丸さんの文章ですら雑誌中ではかなり文学的装飾が多いなと感じるほど。単品で読むとそんなこと無いんですけどねぇ。とはいえ「回想の人びと」の登場者も多く個人的には楽しめました。冒頭の鶴見さんの対談、秋山清さんの文章なんかはかなり秀逸。
(52)盲人に提灯 兀山(松本善之助)編集発行 同人誌
頭山満の子息や「百魔」の編集者とも親交のある著者が、敬愛する茂丸翁の著作から茂丸翁自身のエピソードを抜粋した同人誌。百魔のような快人伝ではなく、茂丸個人のエピソードが多いので痛快さはちょっとダウン。しかし、内容の選定はなかなか良いです。何よりこの小冊子を個人で発行し続けてるってのが凄い。いやぁネット時代になって本当に良かった。末尾に「頭山満翁の次男泉さんに前から茂丸翁の遺児竜麿氏が福岡に健在で親譲りのなかなかの快男児で、インドにも飛んだことがあったときいた。この本ができたら送って喜んで貰おうと思っている。」とあります。名前など間違っていますが、これは龍丸さんのことのようですね。頭山泉さんら東京の玄洋社関係者は龍丸さんの活動を知っているが、著者のような茂丸翁にかなり詳しい人にすら、その存在を知られていなかったのだなと知りました。
(53)インド群盗伝 山際素男著 三一書房
龍丸さんの最初のインド行(印度をあるいて)をエスコートしたJ.P.ナーラーヤン。(通称はJ.P.)彼はインド独立時の有力野党の党首でありながら、なぜか政界を引退し、ある種ユートピア的発想過ぎる「全面革命運動」に尽力した不思議な人物。この本ではインドの厳しい風土と矛盾に満ちた社会の生み出したダコイットと呼ばれる世襲的盗賊集団が政府軍の攻撃には屈せずとも、J.P.の呼びかけに応じて1000人以上が武器を捨てて投降するという、20世紀においてはインドでしかありえないエピソードを描く。法や政府は信じないが、J.P.は信じようという近代銃器で武装した無法者たちの姿と、彼らに全面的に信頼され、一定期間の身柄の拘束後は彼らの罪を問わないことを政府に認めさせちゃうJ.P.の不思議な存在を知ることが出来る。しかし、J.P.は、その理想といい行動といい、西洋的近代価値観からいえば全く理解不能でめっちゃ不思議だよなぁ。
(54)神の国から サントーシャ・チカ著 自費出版
現在、印度で緑化活動を行っているグループの一員であるサントーシャ・チカさん(日本人)の書かれた印度で感じたことや知ったことをつづったエッセイ集。自分は海外で生活した経験がないのですが、異邦人であえるが故の因習に捕らわれない気楽さと同時に。その逆の苦労も常に存在するのだなと思いました。個人的にはストリートチルドレンというかもの乞いの男の子のエピソードが印象的。全文を紹介しても良いとの事ですので、ここに掲載させていただきます。(書籍だと写真がたくさん入ってます)
(55)栄光なにするものぞ-海を墓場に-臨時船員の記録 土井全二郎著 朝日ソノラマ
戦時中、満足な護衛も武器も無く戦地へと兵隊や物資を運ぶ為に送り出され、次々と沈められていった民間船とその搭乗者達の記録。龍丸さんの乗っていて、沈んだ扶桑丸(8188トン)の記録もあり。大阪商船所属で戦前は台湾航路に就航。先客定員一等42名、二等88名、三等638名で三等は畳張りの広間。太平洋戦争が始まった直後は、船体を白く塗り二本の煙突側面に赤十字章を記した陸軍病院船として就航していたとの事。ちなみに赤十字を描いた病院船時代にも米軍の攻撃を受けた経験ありとのこと。「幻の戦斗機隊」に出てくる船長や機関長、水夫長さん達はかなり肝が据わってましたが、なるほど、下手な兵隊さん達より死線をくぐってるわけですね。
(56)鳩よ!-特集夢野久作 マガジンハウス
写真やイラストを多用した異色の文芸ビジュアル雑誌の夢野久作特集号。この頃は作家個人にスポットを当てた作りなので、御馴染みの西原和海さん、平岡正明氏などが参加しており、ファンであればそれなりに楽しめるのでしょう。龍丸さんは「怪人・久作の光と闇」の項に『やはりこれも血というものだろうか、砂漠緑化計画というものに心血を注いでいたが、やや掴みどころのない印象を受けた』人物と書かれている。この記載はちょっと不満だが、文芸雑誌だし、まぁこんなもんでしょう。個人的には末尾の「観光・夢野久作」と題した久作ゆかりの福岡周辺の地をめぐった記事が良かった。夢久庵の書斎に座る龍丸さんの写真が掲載されており、個人的にはこれだけで満足。
(57)天命に安んず-進藤一馬・その人と歩み 天命に安んず出版委員会
玄洋社社長として郷里にあって子弟の教育に勤め、玄洋社の柱と言うべき存在であった「進藤喜平太」翁を父に持ち、自らも最後の玄洋社社長を務めたのが進藤一馬氏。龍丸さんにとっては、母校福岡中学の先輩に当たる。本著は市制3期目を終え、引退する予定であった進藤氏に対する顕彰の意味で作られた著。中野正剛氏の秘書を長く務め、正剛の自決後、玄洋社社長に就任するも敗戦。GHQにA級戦犯容疑者として拘束されるが2年8ヵ月後釈放。しかし、玄洋社は解散指令を受けて財産を全て没収され、玄洋社の先輩に当たる広田弘毅はA級戦犯として死刑判決を受け、黙したまま逝く。自らも公職追放となるが、次期首相候補であった緒方竹虎の急死を受け、衆議院選挙に打って出、以後4期当選を果たす。昭和47年、大臣候補でありながら乞われて福岡市長戦に立候補し、当選。政令指定都市となり、県から独立した財源を元に、地下鉄、高速道路整備、市街地の再開発等、福岡を大阪より西では最大の大都市へと変貌させた。本自体はカラー写真も豊富ですんごいデカい。市制の変化と発展ッぷりを知る資料としては、重要な本。頭山満や喜平太翁ら玄洋社創立世代から山座、広田、中野、緒方ら戦中、戦後時代への移り変わりが良くわかる。また、これまでファッショのイメージの強かった中野正剛の印象がだいぶ変わった気がしますね。
(58)雲峰閑話-進藤一馬聞書 江頭満著 西日本新聞社
「天命に安んず」で伝記部分を執筆した江頭満氏による、進藤一馬氏の伝記。「天命に」と重複する部分も多いが、意と異なっての4期目の出馬と任期途中での引退、勲一等瑞宝章の叙勲までが追加されている。「筑前の花守」のエピソードも掲載。龍丸さんとは、東京福中同窓会設立や、進藤氏の議員就任に際し桑原廉敬さんへの秘書就任以来を独断で断るなど、戦後、昭和30年頃までは親密な関係であったと思われるが、晩年は玄洋社墓地移設問題や「夢久庵」の史跡保存請願が聞き入れられなかったなど、疎遠となっていたとの事。九州の中核都市としての経済成長や保守市制の確保という党内意向もあり、近代的大都市化を進める進藤氏と、小さくても良いから昔の文化や町並みを守りたいと思う龍丸さんの思惑の差もあるようです。都市化というのは良否を含む内容であり難しいところですが、夢久庵は残していれば市にとって良い財産になったと思うので残念ですねぇ。
(59)別冊宝石78号-久生十蘭・夢野久作読本 宝石社
探偵小説雑誌別冊の久作特集号。作品の他に龍丸さんの「亡き父・夢野久作を偲んで」と喜多実氏による「夢野久作回想」を掲載。大下宇陀児、水谷準、土岐雄三氏の座談会が楽しみどころ。大下氏の龍丸さんへの評価「これがまた変わった息子だ。竜丸というのが長男で飛行将校だった。陸軍少佐だよ。終戦当時は、向こうにいたんだ。これに美談があるんだ。戦争が終わって、こっちへ帰ってきて、三年ばかし何してたかとい うと戦死した自分の部下の家をみんなまわって歩いてるんだよ。慰めに。そういうことをしてる。それからいろいろやってね。しょっちゅう変わるんで僕はあきれて、親父に似ていると思ったんだ。(中略)ところでね、お祖父さんが杉山茂丸だろう。玄洋社の頭目だ。その何かが彼にもいくらか影響してるんじゃないかな。息子にも国士的なところがありますよ。非常に生まじめでね。」は興味深いですね。
(60)演能手記 喜多実著 謡曲界発行所
別冊宝石の喜多実氏の文章が興味深かったので、実氏の久作関連の文章を探してました。久作が情熱を注いだ能演、喜多流の家元御曹司であり、年少の親友として知られています。本著掲載の「友・杉山の死」は、世間の人が久作の「博識」と「トンチンカン」な面に興味をもち彼の特徴と捉えていたのに対し、自分が彼を誰よりも深く友として敬愛したのは、その性情のまれに見る美しさにあったとし、ドストエフスキーの「白痴」の主人公(ムイシュキン公爵)に模すことまでしている。実氏から見ると、軍隊経験、禅の修行、謡の修練から、自らを強い人間と思いこんでいる久作が、茂丸の死に引き続く混乱の中で、苛立ち、消耗していくのが実感として感じられていたようで、「久作倒れる」の報を受けたときも「脳溢血だろうという予感が強かった」とのこと。これは龍丸さんやクラさんも感じたようなので、当時の久作の苦闘が思いやれる。実氏は正直、性格のきつい、敵を作りやすそうな人なので、他の著作と比べても、この一文は愛情と愛惜に満ちた特別な文章に感じる。ちょっと泣きそうになるくらい。他ではあまり引用されないようですが、久作ファンにはお奨めです。
(61)ユリイカ-特集夢野久作 1989年1月号 青土社
解説、論評、作品案内からマニアックな調査報告まで、執筆人の充実振りを含めて、久作特集号としても特出の出来。個人的には、久作の実妹、石井多美子さんの「兄・夢野久作」が嬉しい。久作の継母(多美子さんにとっては実母)の茂松さんが、久作が行方を決めず旅に出ていた時(放浪か?)には、「お兄様がひもじい目に会わないように」と陰膳をすえていたことや、出家、変名の際には、茂丸の友人、小美田隆義の息子と一緒だったこと、多美子さんが女学校に入る頃まで、久作と母が異なることを知らなかったなど、興味深い点も多い。なにより、それなりに頼りがいのある兄としての久作が、思っていたより暖かそうな東京の家庭の中で描かれており、微笑ましい。
(62)夢野久作-快人Q作ランド 夢野久作展実行委員会発行 1994年
1994年に地元福岡で開催された夢野久作展「快人Q作ランド」の為に編まれた冊子。鶴見俊輔氏の公演記録、三苫鐡児さんへのインタビュー、久作ゆかりの地を訪ねる体験ガイド、詳細な杉山家の歴史と玄洋社の記録などマニアも満足できる充実の内容。なにより郷土人としての久作への愛着が感じられるのがグーです。龍丸さんについては三苫さんのインタビュー、「杉山家の人々」などに登場。特に石瀧氏の「夢野久作と玄洋社」では、茂丸も玄洋社員ではなかったと玄洋社に対しては批判的見解を持ちながらも、誰よりも玄洋社的生き様を体現していた人物として語られています。本書は久作展の制作・事務局長をされた権藤さんから戴きました。貴重かつ楽しいお話を聞かせて戴き、ありがとうございました。
(63)思想の科学 通巻300号-運動にとって文学とは何か 思想の科学社 1978年6月号
龍丸さんの連載「夢野久作の生きた世界」を掲載した号。「夢野久作の生きた世界」は、存在はそれとなく知っていたものの、手を付けられずにいた所、六反田さんがtext化された品を読ませて戴きました。「わが父夢野久作」や「西の幻想作家」で語られていなかった内容を多く含んでおり、入手可能な龍丸さん関係資料がまだまだあるのだと、気づかせて戴きました。ありがとうございます。連載4回目の本号のでは、他に「横浜事件の人々」と「絵描き丸木夫妻の“政治”」が秀逸です。
(64)詩集 一匹羊 茶川影之介(杉山参緑)著 生命社
龍丸さんの末弟、参緑さんが自費出版していたと思われる詩集の一つ。筆名である「茶川影之介」名義である為、存在に気づいていなかったが、先日、参緑さんについての示唆を得たこともあり入手。参緑さんの詩集は死後に刊行された「種播く人々」が知られているが、著者自身による選定、制作時期が近いなどもあって主題の統一感があり、詩集としての潜在力はこっちのほうが上に感じる。巻末の「一匹羊の日記」は人柄と詩人としての覚悟がそこはかとなく滲み出ていて、いい感じです。正直、見直しましたねぇ。
(65)亀岡高夫・全人像 中村啓治著 行政問題研究所
田中軍団と呼ばれた田中角栄派の中堅として建設大臣、鈴木内閣での農林水産などを歴任した福島選出の衆議院議員。龍丸さんとは陸士53期の同期生で同じ歩兵科出身、派閥も佐藤栄作派と一見縁が深そうに思えるが、国際文化福祉協会を財団法人化し税制面での優遇を得たいという陳情に対し「天下りを受け入れないから駄目」と拒否したとされる人物。本著は、亀岡氏の半生を書いたいわゆる提灯本だが、経歴を知るには有効。亀岡氏が政治家の出身でも資産家でもなく「積雪寒冷対策運動」という、国庫から地方にお金(税金)を引き出す組織の調整役として政治に関与し、官庁との調整役の重要性を認識している為、「働くかどうかわからん奴に出す金は無い」と正論でくる龍丸さんと経歴的に相容れなかったのかと読んでいる途中は思った。陸士の同期生として戦後すぐの東京でも関係があったかに思える記載もあり、資料としては興味深かったです。
(66)陸軍カ号観測機-幻のオートジャイロ開発物語 玉手榮治著 光人社
飛行機誕生直後、ヘリコプター誕生前に完成した不思議な回転翼機「オートジャイロ」。ぶっちゃけ「ルパンⅢ世 カリオストロの城」で伯爵がのってるヤツと言った方がわかりやすいか。ヘリコプターの登場によって淘汰されたとも言える機体が砲兵隊の着弾観測気球に変わる低速飛行可能な機体として、日本陸軍によって開発された経緯をしるした本。著者がずぶの素人のため、情熱と情報はすごいがめちゃくちゃ読みにくいのが難点。まぁ、それを差し引いても貴重な本ではある。
龍丸さんが戦時中、軍の極秘任務として福岡の志免で整備を行ったことがあるとの事。機体の実戦配備が19年2月以降であり、龍丸さんらが7月にはフィリピンに向かっていることを思うと、陸軍特殊船(輸送用プチ空母)に載せられて、フィリピン戦で使うべく同年11月に送り出されたが、五島列島沖で乗員もろとも米軍潜水艦に沈められた機体(数台)がそれに当たり、この機体をフィリピン戦で運用する為の整備訓練を行ったか、船への分解搭載の準備に関与したのでは無いかと推察されます。ただ、カ号は砲兵隊の着弾確認と船舶警戒が主任務であり、所属部隊も異なる戦闘機隊整備隊長が関与していた背景については、引き続き調査が必要なようです。情報提供いただいた、はてなさま、ありがとうございます。
(67)風成の人-宇都宮徳馬の歳月 坂本龍彦著 岩波書店
龍丸さんと親しかった政治家として満丸さんがいつも名前を挙げられていたのが、宇都宮徳馬さん。「核に殺されるより、核に反対して殺される道を私は選ぶ」の軍縮、平和運動の闘士として、また自民党内に在って岸伸介と60年安保改定に反対した反骨の国会議員として知られる。戦前は左翼活動に従事して入獄経験もあり、戦中戦後と非主流を貫いたその反骨は40年以上の議員生活でありながら大臣経験ゼロという筋金入り。母の遺産の土地を切り売りして雑誌「軍縮」を出し続けた姿だけでなく、父親(宇都宮太郎大将:茂丸の幼友達であった明石元次郎の対ロシア工作を駐英武官としてバックアップ)、義父(駒井徳三:満州国に五族協和の新国家設立を夢見て敗れた初代満州国総務長官)、自身は夢野久作の親友、後藤隆之介率いる昭和研究会に参加など、軍縮、平和活動のラインだけでなく、大アジア主義の継承者という点でも思想的に近いものがあったのではないかと思う。戦闘的理想主義者という言葉がこれだけ似合う人はちょっと居ないですね。
(68)参風-第16号 社団法人参議院協会
新憲法の元、二院制の一翼をになって発足したものの、その意義と機能が十分に国民に浸透しているとはいい難い参議院の啓蒙と発展のための恒常組織として前参議院議員らを中心に発足したのが「社団法人参議院協会」であり、参風はその機関紙。1980年2月5日に参議院議員会館特別室にて27人の出席者の元に龍丸さんを講師として行われた研究会の速記録「世界の砂漠緑化問題について」が記載されている。出席者は元、現参議院議員らが主と思われ、佐藤栄作と茂丸の関係から始まり、砂漠発生のメカニズム、印度での活動などが語られる。前半のメカニズムの点に時間を多く費やした為、活動報告の分量が少なめだが、興味深い記載が多く貴重。任意団体に過ぎないICWAへの財団法人化を含む経済的協力も依頼したかったことと思うが、研究会の性格上か、インド政府から予算がつきそうな話があった為か、これらについては語られていない。龍丸さんと国政レベルの政治家との密接な関係の一端を知ることが出来、個人的には読んでいて非常に興奮しました。
(69)コペル21 1984年6月号 くもん出版
くもん出版発行の「21世紀への少年少女科学マガジン」と銘打った雑誌。ターゲット層は学研の科学と学習とほぼ同じだが、ちょっとだけNEWTONよりの編集になっているのが特徴。この号の特集“砂漠”に龍丸さんが協力しており、インドでの成果がランドサット画像と共に掲載されている。カラー雑誌なので、他の本の写真よりずっと鮮明でわかりやすいのが嬉しい。とはいえ、この雑誌、発行部数が邀少ないのかネット古書でも全く見かけないので、この号だけ欲しくてバックナンバーをのセットを購入してしまいました。
(70)世界が称賛!! 伝説のニッポン人 話題の達人倶楽部編 青春文庫
明治、大正、昭和の時代から海外で偉業を成し遂げた35人の日本人達の列伝。第1章「開拓者たち!」で西岡京冶氏に引き続き“インドの砂漠化を食い止めたグリーン・ファーザー”として龍丸さんが取り上げられている。一人当たりの分量が10ページ位なので、緑化の為に杉山農園を含む私財を注ぎ込んだ点についての記載が無いのは残念だが、こういった形で少しずつでも紹介されていくのは嬉しいことですね。
(71)玄洋社発掘-もうひとつの自由民権 石瀧豊美著 西日本選書
玄洋社の産みの親というべき人参畑の婆さん「高場乱」の親族でもある石瀧豊美先生による玄洋社の研究書。玄洋社社史の誤りを正し、日本でも最も早い段階で福岡において花開いた自由民権団体としての玄洋社に光を当てている。頭山や箱田、平岡といった巨星たちの視点からではなく、地に足をつけて誠実に生き、世に知られること無く亡くなって行った無名の社員や支援者達が抱いた夢や理想の軌跡を、国会開設建白書や条約改正建白書、筑前共愛会の活動といった新資料発掘を含めた形で正面から取り組んだ良著。久作の敬愛する奈良原至に関する発見も興味深い。石瀧さんは生前の龍丸さんと親交が有り、龍丸さんの生きざまを通じて玄洋社というものを理解していたように思うと「快人Q作ランド」に書いておられます。
(72)三宅正一の生涯 三宅正一追悼刊行会編 恒文社
三宅正一氏は早稲田大学在学中から社会運動に従事。国民健康保険制度、育英会制度など農村に立脚した国民福祉の充実に尽力し、戦後は日本社会党の長老として衆議院副議長を勤めた人物。龍丸さんとの関係は、本著462pに「邦人有志によるインド沙漠緑化事業(中略)にも、かくれた支援をおしまなかった。」と記されている。1978年8月東欧諸国及びインド訪問議員団の団長としてインドを訪れ、龍丸さんの活動を視察した縁から、参 議院会館での講演や財団法人化の為の調整などで、龍丸さんとは頻繁な手紙のやり取りが有りました。全くの善意から外務省などがお金を出している「日本砂漠開発協会」との合併を薦める三宅さんに対し、龍丸さんがこれまでの実績と日印にまたがる国際組織であることから、逆に国際文化福祉協会への統合を要求するやり取りが続きます。「わかって無いなぁ。」と思いながらも三宅さんの善意の申し出に対し、龍丸さんが珍しくちょっと困ってるのが印象的です。三宅さんも宇都宮さん同様、天下国家について考えるタイプの政治家で、選挙区は田中角栄とガチンコの新潟三区。利益誘導型の田中角栄型政治の対極にいる人で、正直言って、まったくお金を持っていない(集めるのも下手)な人物なので、龍丸さんとは、ものすごく気が合いそうですが、財団法人化を目指す団体の後援者としては、政治力が弱いのではとも思いました。なるほど、この組み合わせだと亀岡さんは、サポートに回るのが難しいですね。比較にならないとはいえ、親分の選挙区の野党議員が後援者な訳ですからねぇ。
(73)技術と経済-1981年4月号 社団法人技術と経済の会
特集「明治生まれの先達に聞く・新たな文明の道」に、なぜか(笑)大正生れの龍丸さんがインドでの技術指導と緑化事業の進展過程について「新しい文明への道」の題で寄稿。駐日インド大使、C.P.N.シンハ氏による平和五原則への協力依頼を契機とし、インド国民生活と技術の向上を支援する活動に至ったことや、依頼を受けた直後、台湾に渡り「蓬莱米の父」磯永吉博士の家に泊まりこみで熱帯農業について学んだこと、インド非常事態宣言のさなか、龍丸さんもインディラとJ.P.の対立に巻き込まれていたこと、龍丸さんの協力者たちにも、米国流や英国流など他の農業支援方式に走って行った人達が居た事など、他では全く知ることの出来ない情報を多く含む。支援組織の名称は本来の目的としている「福祉」の前に「技術」の意味を持たせる単語として「文明」と「文化」を考えたが、ある人から「文明は戦争をするが、文化は戦争をしない」と説明をうけたことにより「国際文化福祉協会」としたとのこと。本書入手の際には、科学技術と経済の会、総括部の井上様の御世話になりました。ありがとうございました。
(74)砂漠化する地球-文明が砂漠を作る 清水正元著 講談社ブルーバックス
クウェイトで砂漠緑化に従事し、全国の高速道路工事後の植生再生を指導した農学博士にして国際文化福祉協会の会友でもある清水氏が、砂漠発生のメカニズムを解き明かし、現在の危機的状態について危機を訴える。「世界は無機物から植物が生産する物質とそれを消費する動物が作り出す循環系からなっており、人間もこの系を超えて生存する事は出来ない」ことを、気候論、植生論の観点と自らの経験からモデル化しわかりやすく説明している。龍丸さんはインドでの砂漠化の現状の資料を提供しており、謝辞にも登場します。
(75)夢野久作著作集6 随筆・歌・書簡 夢野久作著、西原和海校訂編集 葦書房
西原和海さんによる夢野久作著作集の最終巻で、久作の随筆、歌、書簡を取り上げている。1巻刊行から6巻での完結まで諸事情により20年かかっており、龍丸さんの生前は未完のままであった。晩年、杉山農園の全てを失い、軍人恩給と幾許かの著作権料だけが生活の支えだった龍丸さんからすれば、あまりの刊行ペースの遅さに恨み節の一つもこぼしたこともあったと聞く。ただ本著を読んで、西原氏の残した仕事の内容はそれらを知った上でも賞賛に値するものと思う。また葦書房だけあって月報の出来が素晴らしく、特に鶴見俊輔さんの「夢野一族頌」でその中で龍丸さんに出会い“金の旗に一致団結している日本にこんな人がいるのかとおどろかせる人だった“と思い、また家族を含めて親しくなっていったことで、当初考えていた杉山家の伝記が書けなくなったお話は印象的。
(76)迷宮のいりくち 鶴見俊輔著 天文書院
鶴見俊輔さんが龍丸さんの死後1990年に「オール読物」に掲載した一文を私家版としてまとめた小冊子。夢野久作の作品論とそれに対する茂丸の影響について、龍丸さんを入り口として言及している。久作論の形を採ってはいるが、これは龍丸さんへの哀悼文と思う。金本位の戦後日本にあって、自分の信じる目標に莫大な財産の全てをつぎ込んで失い、また自らの出自ゆえ、戦後の平和運動の仲間に入れてもらうこともできなかった、龍丸さんの“誠意と孤独”を、誠実に伝えている。あっしは満丸さんから拝見させていただいたが、この小品を非売品の形で、実に手の込んだ装丁で極少数部(たぶん自らのお金で)まとめ、近親者に配られた鶴見さんの“亡き友人への真心”のことを思うと、詳細は判らない身ではありますが、泣けました。
(77)夢野久作と埴谷雄高 鶴見俊輔著 深夜叢書
夢野久作と埴谷雄高という二人の作家について鶴見俊輔さんが論じた文章をまとめた本。久作関連は大概読んでいたが、1981年に毎日新聞に掲載した“「怪奇小説と」三代の意図“は未読であった。3ページのうち約半分が龍丸さんについて書かれている。“アジアとの連帯を、軍事的あるいは経済的侵略からきりはなされた方法で実現する事が、先代、先々代から龍丸氏につたわる夢であり、敗戦をへて龍丸氏がその本来の意図に打ち込むようになったと言える。(中略)杉山氏の努力の方向は、日本国全体の今後の方向転換に示唆をあたえる。“と、高く評価している。
(78)「むすびの家」物語-ワークキャンプにかけた青春群像 木村聖哉、鶴見俊輔著 岩波書店
鶴見俊輔さんがハンセン病青年の宿泊拒否について語った事を契機に、奈良の大倭紫陽花村にハンセン病回復者の宿泊所(むすびの家)を建設する事に尽力した若者達と、それを見守り時に支える大人達の物語を、当時学生であった木村氏と彼らのよき指導教官であった鶴見さんがそれぞれの立場からまとめた書。龍丸さんはそれら心ある大人の一人であり、ガンジーアシュラムという若者たちが模索する共同体生活の貴重な体験者として、また密入国の罪で強制送還された韓国人洋服屋さんを再び日本で妻子と共に住めるように奔走する従来の市民運動の記録の中では収まりきらない人物として、鶴見さんによって語られる。龍丸さんが「福岡以外で住むならば京都がいい。京都には友人がおり、近くの奈良には自分の信頼する若い人びとがいる。」とまでの思い入れを持っていた事は興味深い。
(79)ことむけやはす(1) やわらぎの黙示 矢追日聖著 野草社
大倭教団の創立者、紫陽花邑の主催者である矢追日聖法主がこれまで発表してきた文章をまとめた著作集の第1冊目。父祖共にその束縛から逃れようとした古くからの信仰の家に育ち、家の財政再建の為、実業の道に進みたいと考えていた17歳の時に霊示を受ける。若い時分にはかなり反抗を試みたものの、終には神威の絶対性を尊敬する様になり、霊示に心から順応出来る様になったとの事。霊示の有無にとらわれると読み進めるのが辛いが“この人はわかる人だから”として読むと、信者を増やす気も自己を神格化する気も無い、おおらかで懐の深い人物とその周りの人達との交流の楽しさが大倭の魅力ということが、ゆったりと伝わってくる。
(80)ユートピアを追いかけて 柴地則之追悼文集刊行委員会編集、発行
大学卒業後友人らと共に大倭紫陽花邑に入り、大倭新聞の復刊、印刷業、不動産業、はては病院の設立と獅子奮迅の活躍をされた柴地則之氏の早世を悼み、仲間たちが編んだ追悼文集。30代半ばまでの柴地氏の文章と彼の葬儀での弔辞、追悼座談会での仲間たちによる思い出話からなる。実業界でもその人柄と手腕を高く評価され、更なる飛躍を嘱望されていた人物であり、(実際には無理とはいえ)自らの後継者に欲しいと漏らすほど龍丸さんに信頼されていた人物の背景が良くわかる。
(81)現代の宗教 大倭教紫陽花邑 現代宗教研究所編 フェイス出版
宗教団体というだけで無く、戦後すぐに存在した貴重な民間福祉団体としての大倭紫陽花邑の姿を伝えるルポルタージュが見所。龍丸さんと交流の有ったまさにその時代の若々しさ溢れる邑の活気を外部の記者の目で伝えている。大倭紫陽花邑については、先日訪問させて頂き、皆さんからお話を伺ってきましたので、別項でまとめて紹介したいと考えています。
(82)台風と闘った観測船 饒村曜著 成山堂書店
玄洋社記念館の浅野館長さまから龍丸さんのお話を伺った際に、館長さんが従事していた「定点観測」がどういうものか知りたくて購入。富士山レーダーも気象衛星の無い時代には、それまで1000人以上の犠牲が頻繁に出ていた台風の進路を確認して被害を最小限に抑えるべく、台風の通り道の定点観測点に観測船を常時停め、台風の真っ只中で気象観測業務を続けている人達がいたとは!特攻漁船だって台風のときは避難してるわけですが、沈没の危機までは逃げることも許されない仕事があるとは、もう吃驚です。船だって海防艦という日本沿岸を高速で移動するために作られたもので、速いけど横揺れが激しく居住性は最悪とのこと。天災の被害を防止する歴史の中では、こういった知られていない人達の奮闘努力が有ったのですねぇ。ちなみに龍丸さんが制作にチャレンジした樹脂製の漏斗らしきものは、56pに載ってます。
(83)1940年 釜山 飯尾憲士著 文藝春秋
陸士60期出身で戦記ものの作品も多い飯尾氏の手になる、戦時中の思いを引きずる人々を描いたノンフィクション短編集。特攻隊を率いて20代前半で比島に散った陸士57、57期の若者達の特攻に至るまでの心の揺らぎを追った「魂たちへ」の中に龍丸さんが登場。「幻の戦斗機隊」でも印象深く書かれた「一宇隊」隊長、栗原恭一中尉(56期)とのやり取りが描かれる。著者の調査協力者の水野帝中尉が龍丸さんの居た“ファブリカ飛行場”に飛行第54戦隊から派遣されていた縁によるものと思われる。龍丸さんがその悲壮な覚悟に息を呑んだ栗原中尉の最後についても記されている。
(84)偕行(昭和63年9月号、453号) 偕行社
「比島捷号陸軍航空作戦において見聞した特攻隊の記録」の題で「幻の戦闘機隊」とほぼ同じ内容と思われる原稿からなる文章を、龍丸さんの遺稿として掲載。元が原稿用紙108枚という、偕行に掲載する事は不可能な分量の為、全文ではなくかなり圧縮した形となっている。その為、カン特攻と岡野大尉らの亡くなった航空撃滅戦が同日扱いになっていたりして、資料としての価値が低下しているのが残念。栗原中尉のエピソードで出てくる“特攻機に付けられた剥き出しの信管”が図入りで説明されているのはありがたい。
(85) グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑に変えた日本人・杉山龍丸 杉山満丸著 ふくおか未来立志塾
ふくおか未来立志塾の権藤さんの依頼を受け「龍丸さんの業績を小学生が読んでわかる文章で」というコンセプトで、満丸さんが新たに書き起こした小冊子。茂丸、久作から始まり、父の死後、杉山家を継いだ龍丸さんの活動が平明な文章で綴られています。正直小学生には難しいところもあると思いますが、その志の一端でも子供達の中に残って欲しいものです。
(86) ふるほん福岡vol.2 福岡市古書籍商組合
福岡の古本屋さんの協会が発行している「彷書月刊」チックな古書目録を含む雑誌。満丸さんによる「父との和解」を掲載。「グリーン・ファーザー」では、まだ書くことの出来なかった、戦前の家長制度を戦後の高度成長期にそのまま継続している、家庭内における専制君主としての龍丸さんが取り上げられている。社会に出た息子の目から見ても、理想は素晴らしいが現実社会での実現は困難な事業に文字どおり命がけで取り組み、財産のすべてを使いきって、無念を抱いて亡くなった父が残してくれていた贈り物と出会い、ゆっくりと父を理解し、和解していく過程が赤裸々に語られています。当方もさすがに書くのを控えていた、息子の就職を全力で妨害するエピソードにあるような、かなーり無茶苦茶な姿は龍丸さんの全体像を理解するうえで、ある意味大変重要と思います。
(87) 古本的 坪内祐三著 毎日新聞社
最近良く見かける様になった古書随想もの。その内の一編で、300円で龍丸さんの「飢餓を生きる人々」を手に入れた興奮を取り上げている。龍丸さんのロックンロールな人生を「とにかく凄いんだから」って感じで、なんとか伝えようとしてくれているのはわかるのですが、龍丸さんの歴史的背景の深い破天荒さに完全に引きずられちゃって、全エッセイ中もっとも支離滅裂な内容になってしまっているのが、可笑しいやら悲しいやら。
(88) 期待と回想 鶴見俊輔著 晶文社
上記「古本的」に龍丸さんが紹介されている本と記されていたのでさっそく購入。内容はインタビュー形式で語られる鶴見俊輔さんの自伝。活動範囲が広すぎて、これまでどこから手をかければ良いのか途方に暮れていた鶴見さんの業績と活動について、俯瞰的に捕らえる事が出来たのが有りがたかった。龍丸さんの生き方を、壮挙と高く評価し、「私もそうありたいと願っている。一種の理想なんだ。」とまで言い切っているのが凄い。山田太一さんの「生きる悲しみ」に龍丸さんの当時は凄くマイナーだったはずの「ふたつの悲しみ」が取り上げられているのを、これまでずっと不思議に思っていたが、山田さんは鶴見さんといっしょに何度も仕事をされていたとの事。龍丸さんを世間に紹介した流れを追っていくと、結局鶴見さんに行き着くのだなぁと実感した次第です。
(89) 磯永吉追悼録 川口四郎編 私家版
品種改良による蓬莱米の開発と普及など南方での稲作研究の第一人者であった磯永吉博士について娘婿である川口四郎博士(海洋生物学者)が編んだ追悼文集。磯博士の同僚や弟子達に混じって、龍丸さんの「磯永吉博士を偲ぶ」が掲載されている。台湾で博士と出会い、インドでの蓬莱米作付けに成功するまでのエピソードがもっとも詳細に期されている重要な書。読み物としてもかなり面白いです。
(90) 思想の科学-アジアの旅15年 No.65、1985年8月号 思想の科学社
「驚いた法律という名の怪物」にインドでの蓬莱米作付け成功をうけ、磯博士への報告と伊勢皇太神宮農業博物館へ収める為に日本に持ち込んだ蓬莱米の標本が、一旦受け取った後、税関からの呼び出しによって没収焼却されてしまった顛末が記されている。これによると“稲の持込みは旧大日本帝国の統治下からのみ許される“という、今となっては過去の亡霊ともいえる法律がそのまま生きており、盲目的に 従わざるを得ないことへの義憤が綴られている。磯博士と蓬莱米について言及されている数少ない本の一つです。
(91) 陸士式人材づくり-行動型人間への三百訓 川野久男著 徳間書店
陸士航空士官学校を卒業後、陸大に進み、航空隊に属していたが中国戦線での負傷から空を離れ、航空隊教育部隊長、教育参謀など軍の教育畑を歩み、終戦後、証券会社の教育部長をしていた著者は、戦後のある意味行き過ぎた民主主義、自由主義教育の対極というべき陸士式の絶対服従という強制による自信作りと判断力、死線突破力を持った人材づくり目指し旧日本軍式が蛇蝎の如く嫌われていた昭和40年、福岡に川野教育訓練所を開設する。訓練所はマスコミから叩かれ、家に石を投げられる迫害をも受けたが、ビジネス(主としてセールス)という現代の戦場で役に立つ人を排出し、今も続いているとのこと。龍丸さんとは士官学校の同期生であり、川野さんが九州の同期会幹事である為、事務所に龍丸さんが良くやってきたとの事。一度お話を伺いたいものですねぇ。
(92) あやかしの鼓 夢野久作原作、赤江瀑作 昭和56年11月6日~25日 PARCO西部劇場
久作の作品を原作とし、PARCO西部劇場で上演された作家赤江瀑氏の処女戯曲。後半色々盛り込もうとして破綻しているというか、ある意味素人っぽさを露呈している感のある原作(個人的には嫌いでは無いが)を赤江氏がどう料理したかはちょっと気になる。龍丸さんは、あやかしの鼓の種本として知人の家に伝わる話があったこと等を“「あやかしの鼓」の思い出”と題して書いている。中島河太郎さんの“あやかし・夢野久作”などはパンフに載せて終わりにするには惜しい出来ばえ。ちなみに久作の使用していた赤樫の綾目の鼓は現在、福岡県立図書館の杉山文庫にあります。六反田様、情報ありがとうございました。
(93)発想転換で半永久 シートパイプ暗渠 津田豊著 農文協
龍丸さんによる砂漠緑化手法のうち、将来の技術的切り札の一つであったのがニッポパイプ法と呼ぶシート状の成型パイプを用いた簡便な暗渠、灌漑の設置法であり、ペルーにて塩害除去の実績も有している。本著はニッポ株式会社の社長であった津田豊氏がシートパイプによる浅層暗渠の普及と紹介の為に表した書。目的や施工法、施工事例等、要領よくまとめて有り、シートパイプ工法について全般的知識を得る事が出来る。「獅子の足跡」に杉山満丸さんも普及に尽力した米原のシートパイプ施工地の探訪記を掲載してます。
(94) 回想の人びと 鶴見俊輔著 ちくま文庫
鶴見俊輔氏が亡き友人達を偲んだ「回想の人びと」が文庫化。文庫になることで、より多くの人達が手に取りやすくなった事で、龍丸さんに興味を持ってくれる人が少しでも増えるかもと思うと、ちょっと嬉しい。先日、直接お話を伺った時、龍丸さん編集の「夢野久作の日記」を手にした際に、「あぁ、これは彼が私の為に作ってくれたんだな、と思った。」と語っておられた鶴見先生と龍丸さんの親密な交際の一端を伝える。
(95)戦後日本思想体系14-日常の思想 高畠通敏編集、解説 筑摩書房
龍丸さんの代表作「ふたつの悲しみ」が知られる様になった背景には、やはり山田太一さん編の「生きる悲しみ」の威力が大きかったと思う。山田さんが「ふたつの悲しみ」の存在を知ったのは鶴見先生による示唆かと思っていたが、「そうでは無い。彼が自分で見つけてきた。」との事。「声なき声のたより」で直接読んだと考えられなくも無いが、それよりも可能性として高いと思うのが本著。戦後の日本社会にあって、非日常的思考を抱きつつ、どのように日常を生きていくべきかという問題に対して、「市民」として生きている人々の小文を取上げて示した書。“<ミニコミ>の思想“の中で「ふたつの悲しみ」が取上げられており、入手の容易さを考えると、山田さんも、この本を介してその存在を知った可能性が高いと考えている。編者の高畠氏はべ平連、声なき声の会の活動を通じて龍丸さんと知り合い、誘いに応じてインドにまで行った事があるとの事です。
(96)<民主>と<愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性 小熊英二著 新曜社
戦後の「日本」および「日本人」がどのような価値体系やナショナル・アイデンティティを築いてきたかについて、戦後におけるナショナリズムや「公」に関する言説を検証し、各時代や組織のキーパーソン達の思想の背景となる個人史にまで踏み込んで、その変遷過程を明らかにする事を目指した書。各種の受賞履歴など評判の高い本だけあって、手にしてみると“なるほど、こりゃスゲェ”と唸らされる作品。この手の本には余り興味の無い当方でも、同じ資料を読んでもここまで深く踏み込めるのかと素直に感心。戦争によって一人の人間が死んだという事が、大きな痛みを家族や社会に残す例として、龍丸さんの「ふたつの悲しみ」が取上げられている。本著での引用元も「日常の思想」から。個人的には、最末尾に登場する小田実氏と鶴見俊輔氏の思想の背景が大変興味深かったです。
(97)夢野久作の少女地獄-日本カルト映画全集3 小沼勝監督、いどあきお脚本 ワイズ出版
夢野久作ファンの間では正直あんまり評価の高くない日活ロマン・ポルノ版“少女地獄”について、脚本だけでなく、監督やプロデューサー、主演女優さんへのインタビューまで含めて、一冊にまとめた本。かなり気合入った完全保存版といった作りだが、これ商売になるのか?と人事ながらちょっと心配。夢野久作作品の最初の映像化とされるが「久作の代表作をこんなにしやがって!」と憤るファンに対し、「著作権管理者である久作の息子さん(龍丸さん)に脚本をちゃんと読んで納得してもらった。原作を買って、あとは好きにやっていいやじゃなくて、きちんとやった。」と反論している。“息子さんは学者で、ときどき東京に来る“とかかれており、「そうか、当時はそう見えたのか」と思うと共に、龍丸さん色々細かいことまでやってたんだなぁって思った。
(98)おおやまと-昭和62年10月号 大倭出版局
龍丸さん死去の翌月に作られた大倭教機関誌の杉山龍丸追悼号。龍丸さんの亡くなった時には、主要新聞にも訃報が掲載されたが、追悼文が書かれたのは西日本新聞と本紙のみ。追悼号の体裁をとったのは本誌のみである。矢追日聖法主がしばしば私邸を訪れてきた龍丸さんとの思い出を記している。昭和43年、国際文化福祉協会発会式にまねかれ、技術供与、緑化活動を一緒に行っているガンジー塾関係者一行と共に太宰府から大倭、大神神社、伊勢神宮と回ったエピソードに、自信と希望に満ちあふれていた龍丸さんにとってもっとも幸せであったろう時代を回想している。志半ばで逝った友人に向けた素直で誠実な弔意に満ちた文章と思う。
(99)ぼだい樹の木陰で-インド救ライへの道 宮崎松記著 講談社
国際文化福祉協会の機関誌“ICWAニュース30号”にてインドの国際賞推薦人に選ばれた龍丸さんが推薦した4人の内、3人はJALMAというインドでの救ライ医療支援活動組織の人達である。4人目の推薦者である松沢義秋氏が日本山妙法寺とガンジー塾の関係者で龍丸さんの友人であった事から、何度か本拠地アグラの施設や300km離れたガタンプールの出張所を訪れたことがあるとの事。ジャンルは異なるが、インドでの献身的な活動に行為と尊敬の念を持っていた様子が伺える。本著は日本が戦後最初に行った大規模NGO活動であるJALMAを発足させ、自ら高齢を押して夫婦でインドの地に赴いて医療活動を行い、航空機事故によりインドの空に散った宮崎松記博士が、JALMA発足の経緯と初期の活動について記した著。宮崎博士は昭和9年から33年までという長期にわたり国立療養所菊池恵楓園という最前線に長くいたこともあり、一部の人達からは過剰とも思えるバッシングを受けている人物であるが、ご本人は熊本五高時代に会ったリデル女史の姿に衝撃を受け、生涯を救ライ活動に捧げ尽くした事を見落としてはならないと思う。正直、このプロジェクトが現在の日本では殆ど忘れられているというのは、勿体ないというか、恥ずかしいとすら思ったッス。
(100)思いやりの心広く深く 常盤勝憲著 PHP研究所
“ICWAニュース30号”にて龍丸さんが国際賞受賞にふさわしいと推薦した四名の一人。大学三年の時に国立ライ療養所長島愛生園で目の見えない患者さん達が舌で点字を読む姿に衝撃を受けた常盤勝憲師は、「壷坂寺霊験記」等で歴史の古い名刹として知られてはいるが貧しい山寺にすぎない壺阪寺を祖父から受け継いだ後、厳しい財政と福祉に理解のない社会環境の中で奔走し、寺社の敷地内に日本で最初の盲老人福祉施設を作る。国立療養所所長の座を退き、インドでの救ライ施設建設の志を抱く宮崎博士と意気投合した師は、JALMA設立以前から対外交渉の苦手な博士の影として、また博士の死後も自らも、しばしばインドに赴くだけでなく、JALMAに壺坂寺からボランティアの職員を派遣するなど、若い日本人達にとって心強い先導者としてその活動を支え続けた。僧侶であり、福祉活動をする者として自らが表に立つことを決して許さず、自らが極限の状況にありながらもなお他人のために尽くすという“菩薩行”に生きた師は生前に自らの著作を表すことはなかったが、追悼の意味を持って後継者であるご子息が壺坂寺の小冊子に連載した師の文章をまとめたものが本著。壺坂寺さんでは現在も継続してインドにおける医療、教育支援活動を続けておられます。
(101)夢野久作全集全七巻推薦文集 三一書房
三一書房版の夢野久作全集刊行に先駆けて準備された全集の推薦文集。本三一書房版の夢野久作全集の出版は、久作の作品を気軽に読むことを可能にし、久作の再評価とその後の久作研究を大きく推し進めることになった壮挙とも言える仕事だが、その好調な売れ行きと高額な著作権料により、杉山農園を失った晩年の龍丸さんの生活を支えた。本小冊子は担当編集者だった三角忠さんが三一書房入社後最初に作った冊子であり、今なお自信作の一つと言い切る全集推薦文集。当時、ハヤカワミステリー版の「ドグラ・マグラ」を数冊持ち歩き、興味を持ってもらいたい人に配って回ったという三角さんの思い入れが伝わる人選と、「ついに久作の全集が出るのか!」という、一部の執筆者の熱い思いが感じられる。特にお奨めは平岡正明氏の“夢野久作-なづけようもない作家”とのことでしたが、なるほどと唸らされる出来ですね。なお、全集の真ん中4巻目にメインのドグラ・マグラを持ってくることだけは最初に決めていたそうです。
(102)彷書月刊第二巻第三号(1986年3月号) 弘隆社
彷書月刊最初の夢野久作特集号。三一書房版全集、「ドグラ・マグラの夢」、「我が父・夢野久作」と続く三一書房版の久作関連作品の装丁を勤めた中村宏氏の“紅赤と黒と白”を掲載。編集者の三角さんは久作全集をやるのであれば中村宏さんに頼もうと決めておられたとのことですが、いざ行ってみたら中村さんは当然久作のことを知らない。“シュールレアリズムだの芸術革命だのとうそぶきながら久作のことすら知らないとは何たる無知!“と怒り、ドグラ・マグラ(ポケミス版)を押しつけて行く三角さん(文中ではS書房のM君)に中村さんが面食らっている姿が書かれています。我々が持つ久作のおどろおどろしいイメージの一端に中村さんの装丁画の印象が有るのは確かと思いますが、いやぁ、しかしみんな熱いなぁ。今となっては、三一書房版はちくま文庫版や夢野久作著作集の陰に隠れている感がありますが、この熱さが久作復活を裏から支えたのだなぁと思った次第です。
(103)九州人類学会報-第八号(1980年) 九州人類学研究会
九州人類学研究会の会報であり、杉山龍丸「世界の砂漠問題について」を掲載。龍丸さんの報告が日本の学会誌に取り上げられた数少ない例かと。内容は作成時期が近いこともあって“砂漠緑化の問題のための科学技術の案内書 No.2砂漠えの技術“と似た内容。まぁ、この内容が、龍丸さんがやってきた成果そのものと言って良いので、重複箇所が多いのは仕方のないところ。なお、本内容は昭和54年度の4月の定例会で発表された模様。なお、九州人類学研究会は2007年現在も活動を続けておられるようで、喜ばしい限りです。
(104)部落解放史ふくおか-第31号(1984年1月) 福岡部落史研究会
1982年3月10日~3月21日に行われた、福岡部落史研究会主催の第四回訪印旅行の座談会掲載号。座談会の司会は龍丸さんの実弟である三苫鐵児さんが勤めている。三苫夫妻は数回インドを訪れておられ、空港にて子供達から龍丸さんと間違われたことも有るとのことでした。時期を考えると本訪問時の頃ではないかと推察します。この頃の鐵児さんはガッシリした体格、眼鏡無し、白髪、オールバックとかなり龍丸さんに似ておられましたので、間違われてもおかしくないかなと。しかし、ある意味全く違う道を歩いていた兄弟の接点が、差別問題への取り組みを含めてインドにあったというのも不思議な話ですよね。
(105)文芸春秋SPECIAL季刊夏号-2008 Summer No.5 文藝春秋社
特集「昭和史・かかる日本人ありき」で取り上げられている16名の中に岩本準氏による「インドのグリーンファーザー杉山龍丸」として龍丸さんのことが掲載されている。他の人物もちょっと「伝説の日本人」と被りすぎな感はありますが、興味深い人物揃い。現役の緑化活動家として植物生態学者の宮脇昭氏も取り上げられてます。
(106)FUKUOKA STYLE vol.2(1991年6月30日発行) 星雲社
香椎の杉山家で下宿生活を送った唯一人の人物である医師森文雄先生による“詩人杉山参緑の絵 正月堂の「作品」”を掲載。詩人と称しながら特に生業につくこともない参緑さんの飄々としてそれでいて業の深い生き様を、同じ場所と時を過ごした、医師を目指す常識人である青年が、親愛の情を込めて回想している。参緑さんの時間にも常識にもとらわれない、強くはないが一徹な生き様がそれを知る人達の中で印象深い思い出として残っているのだなと、しみじみ思った。
(107)雄鷲会員追悼録(第五集)雄鷲第二十一号別冊 雄鷲会編纂
雄鷲は陸士第53期の航空士官学校関係者による会報名であり、昭和15年に創刊号が発刊されている。(創刊号には龍丸さんの文章はなぜか無し)本号は第一集が昭和28年7月15日にでた雄鷲会員追悼録の第五集。龍丸さんが飛行第三十一戦隊の石井勳大尉と親友岡野和民大尉の追悼文を書いている。共に後の“幻の戦斗機隊”を補完する内容となっており、大変興味深い。龍丸さんの住所が“東京都千代田区神田旅籠町三ノ八台華社“となっていることから福岡に帰った昭和30年以前のものと考える。何故か目次の著者名が杉山茂丸となっているが、誤記か当時そう称していたのかは不明。雄鷲には、戦後多くの文章を寄稿していたと伺っているので、今後とも収集を続けていきたい。
(108)日本という国 小熊英二著 理論社
明治維新から始まる日本の近代化とアジア諸国を舞台とした戦争、そして戦後の在り方を、中学生位の読者を対象とし、ちょっとやり過ぎな位、平明な語り口で提示した著。太平洋戦争では日本を含むアジア全体で多くの人達が命を失ったが、戦争で失われた命の背景には、死者の家族という、より多くの人達の悲しみや痛みを伴っていると論じ、その例として龍丸さんの”ふたつの悲しみ“を取り上げている。著者の小熊先生は“ふたつの悲しみ“を気に入っているようで、代表作の”民主と愛国”でも紹介しているが、今回は少女編の全文を“イラスト付き“という年少者にもインパクトのある形式で提示している。
(109)九州王国No.19(2009年3月号) エー・アール・ディ(株)
雑誌九州王国の特集“グリーンファーザーを知っていますか インド緑化の父杉山龍丸の生涯”掲載号。龍丸さんがインド緑化に取り組んだ経緯のみならず、茂丸、久作、満丸さんと繋がる杉山家の系譜についてもしっかり記されている。また、現在の地域の様子、龍丸さんとは別にJAICA等によって日本の協力の元でインドの緑化が現在進行形で続いている事、当方がまだ取り上げられていない国連への協力要請時の日記の掲載など、非常に良くまとまっている特集号。龍丸さん初心者の方もマニアにとっても大満足の出来と思います。雑誌もカラーが多くお洒落。お奨めです。
(110)世界を股にかけた凄い日本人がいた! 博学こだわり倶楽部編 KAWADE夢文庫
第5章“不可能を可能にしたミラクルな日本人”で“インドの砂漠緑化を実現した「グリーンファーザー」”として龍丸さんを紹介。三ページ半位の分量だが、龍丸さんの業績を上手くまとめてある。挿絵もポイントを押さえた上で似せようという意識が感じられて良い感じ。なのに何で表紙がこれなの?ぶっちゃけ表紙の胡散臭さで、この本、かなり損してると思うんですけど。
(111)中学道徳 明日をひらく3【福岡版】 東京書籍株式会社
道徳の教科書にはこれまでも龍丸さんの書いた「ふたつの悲しみ」が取り上げられたことがありましたが、今や龍丸さん自身が道徳の教材として教科書に載る時代に。「グリーン・ファーザー」がベースなので、終始、満丸さん目線で描かれており、家庭では暴君として君臨する怖い父の描写で始まる。龍丸さんを単なる偉人として描いても意味無いと思うので、この視点がきちんと描かれているのは大事なことと思います。
(112)グリーンファーザーの青春譜 ―― ファントムと呼ばれた士(サムライ)たち 杉山龍丸著、 杉山満丸編集 書肆心水
龍丸さんが残した飛行第三十一戦隊のフィリピン戦記”幻の戦斗機隊”を託された息子の満丸さんが、龍丸さん独特の癖のある文体をリライトし、読みやすい形で編みなおした作品。10年の歳月をかけて記した原稿を、ワープロ打ちで製本した品、HPでの公開を経て、30年以上かけて出版にこぎつけた満丸さんの執念の結晶。当方はHP上での公開に協力させていたきましたが、正直web上で読むにはボリュームが大きかったこともあり、書籍として多くの人が読むことができる形になったことは大変嬉しく思っております。病院戦時代も米軍の攻撃を受けた美劇の船扶桑丸の沈没の詳細、特攻前夜の若き特攻隊指揮官の心情、自らは戦友たちを死地に送り出すことしかできない整備隊隊長としての思いなども描かれており、フィリピン戦の戦記としても貴重かと。
(113)岳人2008年9月号 東京新聞出版局
山の雑学ノートのコーナーで寺沢玲子さんによる”インドの「緑の父」杉山龍丸”を掲載。半ページくらいの分量に龍丸さんの業績をみっちりと詰め込んで記している。著者はインド、ヒマラヤと縁が深い女性登山家さん。現地での活動時期は龍丸さんの活動終了後のようですが、分量に対して情報量はかなり多く、思い入れが感じられます。
(114)星と夢の記憶ー三苫鐵兒追悼・遺稿集 三苫鐵兒先生追悼・遺稿集編集委員会編 銀山書房
2008年8月16日に亡くなられた龍丸さんの弟、三苫鐵兒さんの追悼・遺稿集。久作の次男という一般に知られた姿だけではなく、同和教育推進教員として地域の同和問題に深く取り組んだ教育者、同和問題の活動家としての姿が貴重。内部分裂による地域運動解体後も、両者の青年たちのどちらにも与せず、一定の距離を保ちながらも関係を断つことなく、仕事や生活相談に応じていた、一見曖昧や無節操にすら見えるが、他者の誤解を気にしない、厳しさの中のやさしさを持っていた大らかな姿を、同志、後進の方々が振り返り、懐かしく思い出している。社会党の現役党員でありながら、ただ一人校長職を務めた人柄が伺える。遺稿集の”亡き母を偲ぶ”と”参緑の繭”がとても良い。
(115)コレクション鶴見和子曼荼羅VII 華の巻 わが生き相 藤原書店
龍丸さんが信頼していた鶴見俊輔先生のお姉さんで社会学者として活躍された鶴見和子さんの全集。本巻では、ご自身の家族、友人、恩師らの回想と趣味でもあり生活の軸でもあった着物と日舞について書いたものが取り上げられている。龍丸さんは和子さんがインドのサリーを着物仕立てにしたものを見せてもらったことを覚えていて、工芸指導で行ったインドの織物工場で綺麗な魚の緋模様がある布をプレゼントしてくれたエピソードで登場する。俊輔さんだけでなく和子さんとも交流があったこと、緑化事業だけでなく工芸指導を実際に行っていた事例として興味深い。鶴見俊輔先生の書では厳しい、陰鬱な家庭として描かれる鶴見家が、兄弟の中で最も年長だった和子さんの目から見ると、父鶴見祐輔氏の自由主義信条に基づき、親子でも自由に議論指摘しあえ、明るくのびのびとした家庭として描かれているのが興味深い。和子さんは父の影響が大きく、俊輔さんは厳格であった母の影響が大きい為と記されているが。何事も一人の視点だけでは本質を見誤る例として面白かった。政治家としては信念を貫き通すだけの強さがなく、ちょっと情けないところがある人物だがおおらかで子供であっても一人の人間として尊重し、人を否定しない父鶴見祐輔氏の人柄が、敬愛する娘の視点でチャーミングに記されている。和子さんも書いているが、祐輔氏は雄弁家として著名であったが、本質的に教育者、文筆家であり、ものすごく政治家に向いていないのもよくわかる。
(116)きまぐれ遊歩道 星新一著 新潮文庫
平成2年に単行本が出た星新一さんのエッセイ集。1001話の作品を書き終えた後のエッセイも含んでおり、創作ペースを落とした為か、年齢のせいか、率直だがちょっと怒りっぽい印象の作品が多い。「イスラムとは」の中で龍丸さんの名と「文明は火の利用によって砂漠をもたらした」という説を紹介。星新一さんが龍丸さんの論文や著作をしっかり読んでくれていることが良くわかる。というか、しっかり読んでくれていた人がいたという証拠自体、20年調べてきて初めて見た。続く、「思考の泡」では龍丸さんの葬儀に星新一さんが弔花を届けていただいたお礼に伺った満丸さんの来訪を取り上げている。農業土木の仕事(シートパイプ工法)や龍丸さんの緑化事業の継承、夢野久作作品の映画化の打ち合わせ(これはドグラ・マグラ)に奔走する満丸さんの話を聞き、「あまり、無理をなさらないように」と忠告。ご自身も亡父の事業継承と後始末で苦心惨憺されたこともあり、一般的な言葉の中に、同じく破天荒な父を持つ若者に対する心配と配慮が伺える。
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(117)我が文学の師 杉山参緑 日高三郎著 海鳥社
久作の三人の息子達の中で、これまで下宿人であった森先生の文章以外ではあまり語られることのなかった末っ子の杉山参緑さんについて、若き詩友であり、大きな影響を与えた詩人日高三郎氏が十五年に及ぶ交友歴を記した著。参緑さんについて、一緒に生活をともにした森先生以上に描くのであれば、彼の人生そのものであった詩作について、その詩史上の立ち位置や詩作上の苦労、影響をうけた考え方や詩を作って生きざるを得なかった大本にある思いなどについて記されるべきであるが、それは同じ時代を生きた詩人でしか書くことができないとあきらめていましたが、詩作上の友であり弟子とも言える日高さんは完璧な人物。詩人が詩想の心理的背景を文章化しているので、参緑さんへの興味が大きくないと読み進めていくのが厳しいが、参緑さん本としてこのうえなく重要な著である。
現金収入が無く、実家の土地を龍丸さんが売り払った後は、生活保護の受給も拒否したため、困窮し、詩や絵画が暗く陰鬱になっていった。次兄である三苫さんにお話を伺った時に「杉山の家と土地は兄が自由に使うものだと思っていたが、母と弟の分まで使い切るとは思わなかった・・。」と嘆息し、奥さんに窘められておられたのを思い出した。確かに正月堂の家屋だけでなく、参緑さんの食い扶持分位の不動産を賃貸物件のような形で残してあげておれば、生活的にはもう少し安定した詩人としての人生があったのかも。龍丸さんの行った緑化事業は壮大で、そのために本人が自覚しているだけで55億円を超える財産を使い尽くしたことは壮挙ではあるが、その裏に妻子や母、弟が経済的苦労を担わざるを得なかったことは忘れずにいたい。
👇 2020321 (118)を追加
(118)飛行第三十一戦隊行動概況
龍丸さんが所属した飛行第三十一戦隊のフィリピン戦について記された全23ページの記録。ガリ版刷りで筆跡から3~4名の人達が範囲を分担して記している。別紙として師団長山瀬昌雄による訓示(感状)が付属。7P目で主力航空兵力が大きな損害を被ったことから残りの多くは残された龍丸さん率いる整備隊の奮闘が多くを占める記録になっている。飛行第三十一戦隊の整備隊は、かつて在満航空整備競技に優勝した精鋭であったとのこと。最終盤、22ページで戦隊長他空中勤務者のボルネオ転進後、整備員の第一次出発人員は輸送機を直前で撃墜され、”次いで整備隊長(龍丸さん)以下若干名の人員脱出を見たるも、整備隊長「タリオ」に於いて胸部に重傷を負い再起不能となり、飛行機の整備思うに任せず”と記されている。龍丸さんの脱出時に他に若干名の同行者が居たこと、龍丸さんの脱出自体は特に非難めいた記載がないこと、転出先での整備隊としての機能が損なわれたことと龍丸さんが重傷を負ったことを関連付けて記している点などが記載として興味深かった。
映像資料(画像クリックでリンク先に飛びます)
(1)砂漠を緑に 緑の父-杉山龍丸の軌跡 九州朝日放送制作 放映
龍丸さんに興味を持つきっかけとなった、九州朝日放送創立45周年記念番組。メインは長男の満丸さんが、俳優田中建氏と共に、父の足跡をたどるという構成だが、実弟の三苫鐵児さんや友人達(緒方道彦氏、鶴見俊輔氏)の証言により、龍丸さんの抱えていた、個人で抱えるには大きすぎる責任感と孤独についてきちんと言及されているのが、ちょっと凄い。 また、インドでの友人達が龍丸さんと共に行った緑化の成果を、「20年後、もしここに来たら、もっと深い緑と美しい光景を眼にするだろう。」と、努力の成果を心から誇らしげに語る姿が印象的です。
(2)本パラ痛快ゼミナール テレビ朝日制作 2002年2月24日放送
「グリーン・ファーザー」を推薦本として紹介。龍丸さんによる緑化成果の最新映像と共に龍丸さん自身の映像と音声も紹介されており、非常に嬉しい映像が多い番組。時間が15分弱と短いため、杉山家の歴史や、龍丸さんの抱えた絶望と孤独についての言及は殆ど無いが、紹介作品としては良くできているんじゃないかなぁ。
(3)ドグラ・マグラ 松本俊夫監督 桂枝雀、室田日出男、松田洋治出演
久作の代表作を異色のキャストと、難解な原作をすっきりとまとめた脚本で映画化。久作の作品の映像化としては最も評価が高い作品。やっぱ、桂枝雀さんの怪演が光ります。インパクトが強すぎて、他の役者さんたちが喰われ過ぎている感も無きにしもあらずですが・・。講堂でのあほだら経のシーンも悪くないですが、できれば放浪シーンで撮って欲しかった気がしますねぇ。冗長になるから撮らなかったんでしょうが、雲水姿であほだら経を唱えて廻るつーのは、久作の実体験でもあり、晩年の願望のひとつでもあったような気がしますので、ちと、もったいないかな。なお、評判の良い枝雀さんのキャスティングですが、プロデューサーの柴田さんのお話によると、直接枝雀さんにお願いする前に、久作のファンと事前調査済みの桂米朝師匠のところに伺ったそうです。
以下、概要要約(文責、当方)
米朝師匠:久作のドグラ・マグラをやるのかい。枝雀? そりゃ、適役だ。そりゃ、いい。
柴田さん::師匠から、お願いできますでしょうか。
米朝師匠:あぁ、いいよ。 で、枝雀は呉一朗役(主人公の美少年)なんだろ
柴田さん:え、・・・。
米朝師匠:なんだ、やっぱり正木役かい。そーだろうと思ったよ。(笑)
とのこと。さすが、一代で関西落語界を復興した男。普段のトークにもお金払って良いくらいですね。
(4)グリーン☆ファーザー 劇団ファン☆ファーレ 2003年4月公演
龍丸さんを主人公に、笑いとシリアスを短い時間の中に「よくぞここまで!」とあっしも満丸さんも驚愕した位にみっちり詰め込んだ情報満載、大満足公演のビデオ。冒頭は満丸さんがラブレターを書いているシーンから始まるので、ご本人のすぐ近くに座っていた当方は別の意味でドキドキでしたが(笑)、途中からはあっしも満丸さんもダダ泣き。後半に行くほど感情移入度合いも高まると思います。だから皆さんも見て泣いてOK!!正直、泣いてて見れて無いシーンもあったので、ビデオのおかげでストーリーだけじゃなく、ダンスシーンとかお笑いのシーンとかも改めて楽しめました。多くの人が時間と労力と情熱をかけて表演する演劇つーのは、文章とはまた異なる直接的なインパクトがあり凄いですねぇ。当方はお伝えできた情報量が多寡が知れてることを知ってますので、皆さん深~く読み込んでキャラクター造形をされているのに、ほんと感激しましたわ。
(5)加藤隼戦闘隊 山本嘉次郎監督 藤田進、大河内伝次郎出演 昭和19年度 東宝株式会社
撮影が飛行第三十一戦隊整備隊訓練中の陸軍明野飛行学校で行われた為、龍丸さんを含む整備隊のメンバーが飛び立っていく飛行機に手を振ったりする役(エキストラ)として参加していると「幻の戦闘機隊」に挙げられている作品。黒澤明の師である山本嘉次郎監督、特撮円谷英二、主演は姿三四郎の藤田進と豪華な陣容ではあるが、戦意高揚映画の為か今見てもそれほど面白くない。あえて言うなら本物の隼戦闘機がブンブン舞い飛ぶ所と、唐突に始まる「加藤隼戦闘隊々歌」の合唱、戦前の円谷英二の特撮が見どころか。結局、龍丸さんらがエキストラとして出たシーンはわかりませんでした。
(6)杉山龍丸氏葬儀
福岡のローカルニュースで取り上げられた一行寺における龍丸さんの葬儀の映像。龍丸さんの事業に詳しく、かなり好意的な人物が原稿を用意したと思われ、放送された内容は、故人の業績や遺志を余すとこなく伝え、胸を打つ。ご家族の方も登場されますが、奥様のやつれようが痛々しいです。
(7)トライ・エイジ-三世代の挑戦 第三回杉山家の物語 テレビマンユニオン製作
父から子、そして孫へと受け継がれてきた思いや情熱そして挑戦を軸に日本の近代化発展に寄与した一家三代の業績を描く。2011年2月17日、20:00~21:29にNHK BS-hiにて放送された第三話では、破格、規格外の人生を生き、日本とアジアの発展の為に奔走した杉山家三代を取り上げている。日本を含むアジア諸国が如何にして欧米列強の暴威に対抗していくかを模索し続けた祖父茂丸、茂丸の強大な存在に苦しみながらも作家として、また広大な杉山農園の管理者としての自己を確立していった久作、二人の意思を受け継いだと自負し、莫大な資産と40歳以降の人生すべてをインドの緑化事業に注ぎ込んだ龍丸。「在親民(民を親(おや)にするに在り)」を家訓とし、土にまみれて清貧に生きることを理想としながらも、自らの内なる衝動に突き動かされ、それぞれ常識では理解しがたい破天荒な人生を送った三人の姿を彼らの生きた時代の要請と対比させながら簡潔に力強く描いています。1時間半、NHKなのでCMなし、しかも三代を一人の役者さんが演じるという、これまで杉山家を取り上げてきた番組とは比較にならない超大作。資料調査もドラマ部門も膨大な努力と予算と情熱が注ぎ込まれているのがわかります。当方もちょっとだけ資料協力していますが、知らなかった情報や初めて見る資料もあり、大変勉強になりました。役者さん達の熱演も見所です。お奨めです~。
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