(明治6).12.25~1951(昭和26).1.19
福島県生まれの実業家。星製薬株式会社社長。
若くして、アメリカに渡り、苦学しながらコロンビア大学を卒業。帰国後、星製薬株式会社をおこし、モルヒネやコカインといったアルカロイドの国産化を行う。若い時分に師事した、杉山茂丸の紹介で、後藤新平、伊藤博文らの知遇を得る。会社は当初順調に発展するが、後藤新平の政敵、加藤高明が政権に付くと後藤の資金源と見なされ、官憲による妨害工作を受け、事実上破産するに至る。
政権交代後、台湾にてマラリアの特効薬キニーネの原料であるキナの樹の植林事業に情熱を燃やすが、敗戦により台湾の領有権は失われ、挫折。なおも、新しい事業を興そうとしてアメリカに渡り、そこで客死。
アメリカ時代に知り合った野口英世は親友。有名な野口の帰国の費用は、すべて星が持っている。ショートショートで有名な、作家の星新一氏は彼の長男。
戦後生まれの日本人なら、誰もが一度は読んだことがあるであろう作家、星新一氏の父親ってのがまず気になる。しかも、野口英世の親友ってのが謎。非常にアメリカナイズされた合理的な行動様式と、自分の信じた道をためらわずに真っ直ぐ進む生き方が凄い。めちゃめちゃ直球だ。それ故に、悲劇もまた大きく感じられるのだが・・。
政治的謀略に巻き込まれ、常人では耐えがたい苦しみを味わいながらも、元気と情熱を失うことなく、「口笛を吹いて生涯を渡った」人生は、やはり爽快。
参考文献
(1)明治・父・アメリカ 星新一著 新潮文庫
星一のアメリカ青春記。福島の田舎から東京に出て文明開化にふれた少年が、志を抱いてアメリカに渡り、苦労しながらも真っ直ぐに成長していく過程を、息子である著者が愛情を込めて描いている。現在、絶版。おいらは、古本屋で見つけた。表紙がアメリカの国旗だということに、ずっと気付いてなかったことは、秘密だ。
(2)人民は弱し 官吏は強し 星新一著 新潮文庫
アメリカからの帰国から製薬会社が官憲の謀略によって、事実上の破産に追い込まれるまでを描く。国家的規模の妨害による星一の苦闘と、それに対する著者の憤りの強さがよくわかる本。著者としては書きたかったのではなく、書かねばならなかった本であり、これを書くことの辛さが伝わってくる、超シリアスな本。鶴見俊輔氏(後藤新平の孫)の書くあとがきは非常に出来がよく、必読。著者が、匿名で描いている星一の妨害者の実名を三原作太郎(塩原又策)と、さりげなく記してますね。
(3)明治の人物誌 星新一著 新潮文庫
星一を支え、手助けしてくれた人々を、息子である著者が愛情と感謝を込めて書いた好作品。星一関連としては最初に読むことをお薦めする。(2)の「人民は~」から読み始めると、辛くて途中で投げ出す可能性大。著者の「エッセンスだけを要領よくまとめる」という才が大いに発揮されていて、言わずもがなであるが非常に読みやすい本である。
(4)大東亜科学綺譚 荒俣宏著 ちくま文庫
今は忘れ去られた破天荒な科学者達の列伝。星一は第1部の3人目として登場。彼が実現しようとした冷凍技術の事業化とキナの植林について多く書かれている。星一の業績は跡形もなく消え去ったかのように思っていたが、学校(現在の星薬科大学)と他人の手に渡った星製薬が今なお残っており、活動を続けているという事実は、何か救いのようなものを感じさせてくれる。137pに野口英世とのツーショット写真あり。必見!
(5)きまぐれ体験旅行 星新一著 講談社文庫
著者の海外旅行のエッセイ集。どうということのない本だが、その中の「香港・台湾占い旅行」に注目。まだ日本で流行る前の四柱推名占いを体験しに、香港と台湾を回るというもの。最後に台湾で出会った占い師に「かぞえ26歳の頃やりたいことがたくさんあったが、やれずに終わった。大きな夢だったがそれは実現しなかった。」といわれ、これは父の死去と傾きかけていた会社を建て直そうと苦心惨憺した時期のことと思い至り、驚愕するシーンがある。この時のことを「私の人生の一大変動」と呼び「実現しなかった大きな夢」と捉えていることに、著者の昇華しきれていない思いが感じられ、胸に残る。
(6)祖父・小金井良精の記 星新一著 河出書房新社
星一の義父(妻の父)の生涯を孫である著者が、本人の日記をもとに再構成した本。「日本民族は先住民たるアイノ人、南方の民族、大陸より渡来せる広義のモンゴロイドから成立している。」と唱えた人物として知られる。この説を解剖学的見地から骨格の統計データーの積み重ねにより構成しており、その基礎科学的手法は現在でも高く評価されている。「研究一徹」の夫と「芯は強いがのんびり屋さん」の妻の家に、52歳になってもまだ「全身火の玉」のような星一が娘の旦那さんとして転がり込んできたわけだから、さぞビックリしたことでしょう。しかも星の会社はすでに火の車。この結婚の紹介者が誰かは不明だが、よく紹介したな・・。もっとも、良精も奥さんも、星一の仕事への打ち込み方と家族への心配りに感心してるようですね。
良精が最古参の東大医学部教授と言うこともあって交友関係は広く、清国人捕虜の骨格調査の項では柴五郎中佐も登場します。なお、小泉首相の引用した「米百俵」の小林虎三郎は良精の伯父です。
(7)鴎外の思い出 小金井喜美子著 岩波文庫
良精の奥さんにして、軍医森林太郎こと森鴎外の妹「小金井喜美子」が兄の思い出を書いた本。鴎外の妹ってことは、星新一氏は森鴎外の妹と小金井良精、星一の血を引いているわけだ。これって結構凄いよね。新一氏はこれら3人(特に父)と比べて自分を卑下することもあるが、専門分野での業績に関して言えば、決して引けを取ってないんじゃないかなぁ。性格的には父や祖父よりも、この本の著者である祖母の影響が強い気がしますね。かなーり「ブラコン」入った本ですが、育った環境のことを考えると無理ないか・・。
(8)壮絶壮遊【天狗倶楽部】 横田順彌著 教育出版
著者がお気に入りの作家兼編集者「押川春波」を取り巻く人物達を通して、明治という元気だった時代を俯瞰しようとした本。実に多くの人物が登場し、著者はその交流の複雑さを楽しんでいるのだろうが、正直、煩雑で読みにくい感も・・。一章を設けて、星一を薬品会社の社長としてではなく、「30年後」という空想未来小説の原案者として紹介。晩年の星一の写真が2枚載っている。(4)の本の野口英世との写真は全盛期の物で、エネルギッシュで自信に満ちているが、この本の写真では白髪はぼさぼさで経済、精神両面の困窮ぶりが伺え、痛々しい。
(9)努力と信念の世界人-星一評伝 大山恵佐著 共和書房
星製薬のチェーン店加盟者による星一の伝記。作者はもちろん星一の信奉者だが、幼年期から最晩年まで網羅してあり、星一についての基本資料とも云うべき本。(1)~(2)の本の元ネタでもある。写真も多数有り、若い頃の写真はこの本でしか見られない。星一を偉大なる失敗者、希有な教育家と捉えており、読んでいて楽しい本。死の2年前の出版にもかかわらず、元気溌剌な姿が伺え、死の直前まで猛烈に働いていたことが良くわかる。この時点で移民を含む大規模な構想の下、ペルーに31万町歩(奈良県と同じくらい)の土地を所有して居たようで、こんなビッグプロジェクトを残したまま死なれた星新一氏の苦労は並大抵じゃなかったでしょうね。
(10)夢野久作の日記 杉山龍丸編 葦書房
杉山茂丸の弟子として、昭和4年と10年に登場。昭和10年は、星一主催による茂丸と頭山満の交友50年記念の金菊の会と茂丸の葬儀があった。当時会社は、かろうじて破産を免れたが、社会的信用を失い潰れたも同然の時期であり、「そんな時期に会を主催したり、葬儀委員に名を連ねたりして大丈夫か?」と思ったら葬儀委員の持ち出し費用2000円が一人だけ払えず、やっぱ大丈夫じゃ無い・・。それでも恩人茂丸の葬儀を盛大に飾ってあげずにいられない処に、星一の誠意が感じられるが、あくまで身内での簡素な葬儀との願いを父から託されていた久作にとっては、父の最後の意志を無視する、実に困った人物の一人であったっつーのが、もの悲しい。
(11)聖勅-大東亜戦争 星一著 非売品
衆議院議員だった星一が戦時中の昭和17年に両院議員と政府各位に配った小冊子。意外にも星は太平洋戦争に賛成で、戦争推進のため天皇陛下の上海事変以降の聖勅をまとめ、さらに太平洋戦争推進のために米欧、アジア、南洋諸国の歴史と産物を統計的に紹介した内容。ヨーロッパ人にはアフリカがあるんだから、オーストラリアはアジア(=日本)によこせとか、かなり滅茶苦茶言ってます。戦争協力については星新一さんも(9)の本でも一言も語ってないので、同姓同名の別人かと思いましたが、著者の住所が本郷曙町なので星一に間違い無いです。アメリカ生活の長い星なら戦争に勝てっこ無いのはわかっていそうなものですが、そうでもなく、ここは茂丸を介した玄洋社系の思想との繋がり、及び日本人の海外移住の推進者だったというポジションで、星を見ないといけないようです。周りがイケイケの時に、正確な判断力を保つのがいかに難しいかを感じさせられましたね。
(12)雲に立つ-頭山満の「場所」 松本健一著 文芸春秋
いきなり「玄洋社的思想」とかいわれてもわからないという方は玄洋社の象徴たる頭山満について書いたこの本を参照のこと。当時の星一の思想は、この本の巻末で語られる、文官唯一のA級戦犯処刑者「広田弘毅」の考え方にかなり近いのでしょう。実際、星と広田は茂丸経由でかなり親しい関係ですからね。広田は城山三郎の「落日燃ゆ」で書かれているのと異なり、正式な玄洋社社員で、城山氏の書いたような単純な人物ではないようです。昭和天皇も広田を外交官と言うより玄洋社系として捉えてるようです。茂丸は日中戦争にも反対してたくらい先を見る能力のあった人ですが、その直接の影響下にあった二人が、周りの影響を受けて、この戦争に勝機がないことを認識できなかったのは、残念ですな。
(13)三十年後 星一著
日本SF隆盛の立て役者星新一氏の父親が、実はSFを書いてたってので一部で有名な本。SFマガジン68年10月号掲載のため、全文ではなくて新一氏が半分くらいに短くしてます。奥さんを失って、世の中が嫌になって、無人島で暮らしてた大物政治家(後藤新平)が30年ぶりに日本に帰ってくると、日本はある製薬会社(星製薬)の作った薬の力で「健康の平等」が実現し、平和な理想社会を建設しているというもの。その製薬会社の本社は「聖地」となりみんなが拝みにきてるとか、この社会を実現した大発明家(星一本人)は利益よりも社会の充足を願っている、実に奥ゆかしい男の中の男だとか、よく45にもなってこんな事臆面もなく書けるな~といった記述満載です。特にラストシーンの図々しさは特筆もの。星の政敵達はこれ読んで本気で怒ったろうなぁ。すでに官憲による攻撃が始まっていたにもかかわらず、能天気ともいえる楽観的未来予想を連発する所に、星一が死ぬまで失わなかったパワーを感じますね。
(14)野口英世 G・エクスタイン著 内田清之助訳 野口英世博士伝記刊行会
野口英世の伝記に星一が出てこないとお嘆きのあなた。他の伝記に星がでてこない理由については(3)の本に書かれてますが、この本なら大丈夫。背表紙題字も序文も米国人である著者を日本に呼んで関係者に紹介して資料収集を助けたのも星一ですから。特に序文は野口への愛情に満ちた良い文章で、読んでおく価値ありです。米国人医学者の作品のため、偉人伝というより「ある細菌学者の伝記」といった趣。野口のアメリカでの働きっぷりや業績も面白いが、若いときのダメ人間ぷりがまた楽しい。あれほどお金に困っている母と姉を持ちながら死ぬまでお金には超ルーズ。渡米直前の豪遊による散財は有名ですが、同じ様なことは何十回と有るの。師(血脇氏)が奥さんの新婚衣装を売ってまで無理矢理捻出したお金を、数日で遊びに使い切るかぁ? しかもこの金銭感覚は死ぬまで直らないし・・。しかし、年長者に「この男は見所がある。」と思わせずに入られない魅力も伺い知ることが出来ます。長年謎だった、野口の研究過程やその歴史的評価もすっきりして良い本読んだなって思いましたね。
(15)篤志の明治人-星一 サライ2002年3月号 小学館
星一が雑誌の特集に!!なんでも、時代は星一らしいです。記事は「明治・父・アメリカ」からの抜粋がほとんどですが、雑誌だけあって映像資料が豊富。野口とのツーショット、奥さんの精子さんと子供達(親一、協一、鳩子さん)との家族写真も載ってます。また、星一が考案し本人もよく着ていた「星式制服(背広と軍服の中間みたいな変な服)」や、マッカーサーに向けた「広田弘毅」への助命嘆願書等もあり興味深いですねぇ。これらは星薬科大学内にある星一資料室の所蔵品とのことで、ぜひ一度は行かねばなるまいと、新たな野望を燃やしております~。
(16)百魔 杉山茂丸著 大日本雄弁会
相互リンク先の坂上さんが「百魔」の初版を貸してくださいました。ようやく「百魔」の星一を読めたわけです。茂丸との深く強い師弟関係が「明治、父、アメリカ」などを読んでるだけでは、わからないところでしょうか。これを読んでないと、茂丸の葬式で星のとった行動を理解できないでしょうね。茂丸の星評は「絶賛」としかいいようがないもので、自分が眼をかけた若者の中でもブッチ切りNO.1だそうです。その分なんだか偉人伝みたいで、星に続く「後藤猛太郎」とかと比べると、魔人っぽさがちと弱いですな。あと、星新一さんがよく取り上げる、雇い主である夫人に「お前をこんなに立派に育てたお母さんはさぞ立派な人なんだろうね。」と誉められて、感激して涙するエピソードが、この本では「両親」と書かれており、あえて変更していたであろうことが、ちょっと意外でした。
(17)遠き落日 渡辺淳一著 角川文庫
映画化もされた、野口英世の伝記。星一は、フィラデルフィア時代と、野口の帰国時にちらりとだけ登場。ここで取り上げた本の中ではもっともメジャーであり、もっと出てくると思ってたので、ちとガッカリ。ちなみに、映画は見てないんですが、星は出てくるんでしょうかねぇ。何か、出てきて無さそうな気が・・・。野口の伝記としては、奥村鶴吉の「野口英世」とエクスタインの本を足して2で割ったような内容だが、読みやすく、ろくでなしっぷりも、きっちり描いてあるので偉人として描かれた野口しか知らない人にとっては良い意味で衝撃的な内容でしょうね。
(18)西国立志編 サミュエル・スマイル図著 中村正直訳 講談社学術文庫
星一が生涯、座右の書とした明治期のスパーベストセラー。維新後、世界がひっくり返った中で、どのように生きるべきかを探しあぐねていた多くの青年達に「逆境に挫けず、志を持って努力しなさい」と示唆し、将来への希望を与えた書。茂丸の教えと共に、星の人生を貫く「自助努力」の信念の根幹となった書であり、この本を「明治の人物誌」の巻頭に持ってきた、星新一氏の父への深い理解にも感心する。星一だけでなく、明治期以降の日本人の勤勉を美徳とする社会風潮に与えた影響も大きい。よく言われる「頑張って」という言葉は、この本辺りからきているのかな?
(19)生命の延長 ホシの製品 星製薬株式会社
官憲の妨害工作を受ける前、アルカロイド開発に成功し、薬だけでなく、化粧品、石鹸、絵の具、粉ミルク、お茶(世界初の真空包装)まで手がけ、まさに東洋一の規模を誇った星製薬全盛期のカタログ。大正12年頃の発行かと思われる。イケイケ、ゴーゴーで、10年後にはフォードをも凌ぐとか、言ってるくらい強気です。全140種以上の商品が掲載されており、カタログの上段1/5は、星製薬の歴史や販売システム等を紹介。妙に科学的で教訓的、星の思想がぎっしり詰まった、かな~り不思議なカタログです。
(20)支那の歴史 星一著 星同窓会
日本軍の南京入城直前に、始めて中国を訪れたことを契機に書かれた「聖勅」と同じラインの本。星一の著作というより、彼の編集本。前半は、中国史を経済統計学を学び、出版に従事した経験を持つ星らしく、それなりにわかりやすくまとめています。後半は、風習や中国の人のものの考え方などを日本国の一部として中国を支配(ここまであからさまには、言ってないけど)するために、知っておいたほうが良い内容を列記してます。
なんつーか、右翼的というよりも、当時ってみんなこんな感じだったんだろうなぁと・・。茂丸も中国出兵には反対してたけど、朝鮮は日本のものと考えていたとすると、侵略主義に反対とは到底言えず、五十歩百歩なんでしょうし。「やっぱし時代の枠ってのがあって、そこを超えると世捨て人だからねぇ。」という、旅の相方の意見が一番的を射てるような気がしました。大会社の経営者ですから、社会の風潮からひどく外れてると商売にならないでしょうしねぇ。あと、星一にとって茂丸塾の兄弟子とも言える広田弘毅内閣が中国への移住推進を七大政策の一つに挙げていたことも関係しているのかも。
(21)経営原理 星一著 星製薬商業学校(非売品)
大正13年発行。星製薬星製薬チェーン店傘下の店主達への講習会(特約大会)で教科書として用いたと思われる本。装丁とかは「聖勅」と同じ。下段2/3はノート代わりの無地、ページの上段1/3に、星一の経営哲学が28pに渡って綴られている。内容は星の根幹思想といえるスマイルズの西国立志編からの引用が多く、経営テクニックについての記載は殆ど無いですな。「諸君は自己発見をしなければならぬ。自己を発見し得たる者にして初めて地方第一流の人格者たり、地方第一流の資産家たり得るのであって、延いては人類社会に於ける第一流の人物として恥ずかしからぬ者となり得るのだ。」と地方の資産家等に自覚と教育の重要性を訴えてます。星の教育者としての一面が良くわかる本ですね。
(22)一心 大谷米太郎 大谷米太郎追想録刊行委員会編 ダイヤモンド社
星新一さんが星製薬を手放した過程が、ようやくわかってきました。キーパーソンは大谷米太郎。富山から身一つで上京し、相撲取り、酒屋経営、鋼板用ロール製造で財をなした、立志伝中の人物。ホテルニューオータニに今もその名を残しています。戦後、いくつかの大企業の再建を行い、その中に星一の死と星新一さんの退陣、星製薬の再建が語られています。(→整理過程はここ)
結論から言うと、星一が経理情報を開示していなかったので、皆がまだ大丈夫と思ってただけで、資産の十倍以上の返済不可能な借金があり、完全に死んでます。金を借りた先も、社員も、重役もろくでなしばかりで、資本も頭脳も行動力もあった叩き上げの経営者である大谷ですら、苦しみ抜いて何とか整理できた、ひどい状況を思うと、星新一さんが自殺せずに済んだのは、本当に良かったなぁと思います。星製薬跡地に東京卸売りセンター(TOC)を建てたため、今も星製薬はTOCの子会社として残っているわけなんですね。ちなみにTOCの初代社長は甘粕の盟友でもあった古海忠之さんで、この本にもべた褒めするだけではない、良い回想録を載せています。
(23)星薬科大学八十年史 星薬科大学史編纂委員会編 学校法人星薬科大学
私学として創立者の理念を後世に正確に伝えたいとの信念から十年余の歳月をかけて、まとめ上げられた星薬科大学史。星一に関する資料としては最大、最良のものであり、写真、年表、著作目録、嘆願書、関係者のインタビュー等1400ページにも及ぶ資料を有す。星薬大が創立者としての星一の生き様と信念を後世に継承していこうとしていることが、ひしひしと伝わってきて、大学関係者だけではなく、星一に興味のある人にとっても、十二分にその欲求を満たしてくれる本である。その膨大かつ緻密な内容について、編纂者の方々の苦労を思うと、ただただ頭が下がる。値段も「稲造」位と、内容に対して非常にお得です。でも、凄まじく巨大な本なので、いきなり持って帰ると、家族が驚愕すること間違い無しですわ~。
(24)星薬科大学史写真集 星薬科大学史編纂委員会編 学校法人星薬科大学
大学史として、「八十年史」よりも先に出された写真集。掲載された内容は、殆ど全て「八十年史」に含まれるが、大判の写真が楽しい。表紙にも使われている本館正面に立つ星一の胸像は、星の死後、当時の理事長が大学名から「星」を外そうとしたり、自分が創立者のごとく沿革史を書き換えようとした流れに反対するために建てられたそうです。死後もいろいろ大変だったんですねぇ。
(25)マツモトキヨシ伝 すぐやる課を作った男 樹林ゆう子著 DIMEBOOKS
日本最大規模を誇るディスカウントドラッグストアー「マツモトキヨシ」。社名は薬局店の創業者にして「すぐやる課」を創設し、僅か1期の間に数多くの業績を残した松戸の名物市長「松本清」から。小作人だった父を幼くして失い、貧乏の底に居た彼が、なぜ薬局を持てたか?そう、彼は星製薬商業学校の卒業生。丁稚先の薬屋の旦那が、星一の信奉者だったので、仕事が終わってから、夜学に通わせて貰えたのです。店名が個人名なのは「県議会選挙の時、名前を覚えて貰う手間が省けるから。」とか。努力とアイデアと反骨で、売薬業だけでなく、超一流の地方政治家として、星一の理想を体現するかのように活躍した、非常に面白い人物です。我々のすぐそばにも、星一の精神の一部は、ひっそりと残ってたりするんですねぇ。
(26)甘粕正彦の生涯 武藤富男著 西北商事
一見見関係なさそうに見えますが、星一が甘粕正彦と関係があり、戦後、借りを返すため伝記を出そうと持ちかけるシーンがあります。終戦直前の8月12日、満州から東京へ向かう最後の飛行機に乗り込もうと空港へ急ぐ、星一の馬車を甘粕が止めて、冨永中将宛に「お先に失敬甘粕」と書いた紙を巻き付けたウイスキーを託すのです。甘粕と星の関係、借りとは何か?星は満州で何をやっていたのかなど、新たな謎が浮かんできました。ちなみに八十年史にも、満州行きは記されていますが、内容は謎です。星一が岳父小金井良精の筋から海軍(山本五十六は良精と同郷で遠い親族、息子の良一は海軍軍医少将)との関係が深いことは知っていましたが、甘粕や冨永など東条系の陸軍軍人との関係は知りませんでした。満鉄(後藤新平が創設)がらみか、はたまた新一氏は断固否定しているが阿片がらみか、さらなる調査が必要なようですな。
(27)静電三法 楢崎皐月著 電子物性総合研究所
著者は、電子水(活性水素を多く含み、抗酸化作用や免疫力を向上させる)研究の草分けで、独自の農法(植物派農法)や「カタカムナ文字」等古代文字の研究家として一部で有名。「天才科学者」と賞されることが多いが、科学(少なくとも数学)のレベルはそれほどでもなく、直感と経験、実証に基づく、超個性的な技術者といった人物。戦時中、石原完爾等の推挙で吉林省河北の陸軍製鉄技術試験場所長であったが、戦後、星一の懇願を受け、星製薬で「食糧問題の解決」の研究に従事した。「農学+電気学+風水」といった感の、純科学的手法とは異なるアプローチを取ったため、星一の死後、星製薬から追われた。その後、研究の成果をまとめたのがこの本で、彼の唯一の著作と言って良い。星一が戦後の食糧問題解決に憂慮していたこと、石原完爾ら、満州国設立グループとの関連があったことを伺わせる人物である。
(28)Dr.Noguchi むつ利之著 少年マガジンコミックス
星一が漫画、それもメジャー誌に出てました。元は売れないギャグ漫画家でしたが、「名門第三野球部」以降、感動路線の作品を多く描いているむつ利之氏の野口英世伝。英世の好人物ぶりのみを描いており、ちと綺麗事過ぎる内容ではあるが、幼少期から北欧留学(このネタはレア)を含め、アフリカでの死まで描ききったところは偉い。星一は9巻でのフィラデルフィアでの出会いと小金井良精を思わせる帝大教授を連れてくるシーンで登場。英世を心配し勇気づける、アメリカ生活の先輩として描かれるが、正直ちょい役。この本での英世は勤勉でネジも外れてないので、星一に帰国資金を出して貰ったことや、しかもそれを落とす(笑)といったエピソードは一切無しで、ちと残念。漫画のネタとしては面白いと思うのになぁ。むつ氏の他の作品では「名門!源五郎丸厩舎」がお薦めです。
(29)戦争と日本阿片史-阿片王二反長音蔵の生涯 二反長半著 すばる書房
ほとんど知られていないことですが、戦前、日本でも大々的に阿片を生産していました。これは台湾領有後、台湾島民の吸飲阿片の購入のために多額の国費流出する事を憂いた、大阪府茨木市の篤農「二反長音蔵(にたんちょうおとぞう)」が、後藤新平に建白し、国内でのケシ栽培を認めさせたことに始まります。音蔵は阿片王と呼ばれてはいますが、阿片の売買で巨万の富を得たわけではなく、麦より儲かる米の裏作作物として、また外貨流出を防ぐために、家財を傾けてまでケシ栽培の普及に務めた人物です。この本は次男がまとめた音蔵の伝記ですが、日本の阿片政策史としても非常に貴重。
後藤新平の縁もあり、音蔵の友人で、アメリカ帰りの新進気鋭の実業家として星一が登場。星新一氏が「人民は~」で描かなかった、星製薬阿片事件前史ともいうべき、婦人慈善会疑惑が記載されてている。これは、大正八年に台湾総督府から阿片の独占払い下げを受けていた、星製薬株の過半が台湾専売局高等官婦人達によって組織された婦人慈善会の所有になっていることが、国会で取り上げられた事件で、取り上げたのは当然、加藤高明率いる憲政会の土屋清三郎代議士。構図はのちの「リクルート事件」と同じで、新興企業がその事業の円滑な発展を図るために、直接関係のある官僚らに株による利益配当を提供していたもの。この事件が国会で問題になったことが、星の信用を低下させ、その後、憲政会が政権を奪取したことで、星製薬への阿片払い下げの停止、阿片事件での星一の起訴とそれに伴う星製薬瓦解を容易にした。心情は判るが、やはり星新一氏は「人民は~」で、婦人慈善会の件について、きちんと記すべきであったと思う。他にも、再起をめざす星一が、音蔵の努力の成果たる内地でのケシ栽培の普及を、自分の業績かのように喧伝した件や、星製薬の医療用モルヒネが品質の高さから、闇で最も高値で取り引きされていたことなど、貴重な記載を多く含む。音蔵も星一も、単に利益だけではなく、常に「国益」というものを念頭に置いて活動してきた同志であったが、時代の流れにより次第に離れていき、戦後には敗者として忘れ去られてしまった事実に、切ないものを感じる。
(30)茨木とケシ栽培-知られざる日本のアヘン政策 茨城市民の会(略称:ピースあい)
現在の大阪府茨木市福井は二反長音蔵の家があり、日本だけでなく朝鮮、満州を含む、アジアのケシ栽培のセンターと言ってもよい場所でした。五月になると真っ白なケシの花が咲き誇り、雪が降り積もったかのようだったそうです。この本は茨城の市民団体による阿片政略に関する講演会の資料。「阿片王二反長音蔵」ほかの資料もとに当時の新聞記事なども引用して要領よくまとめられており、星一の名もちゃんと出てます。「ピースあい」さんへ連絡すれば購入可能ですよ。
(31)星の組織と其事業(非売品) 星製薬株式会社
表紙に若き日の秩父宮殿下を工場に迎えて微笑む星一と東洋一の大工場を配し、星製薬の事業内容と理念を詳細に記した全40pの小冊子。大正11年11月発行ということもあり、内容はカタログと重複している部分もあるが、商品より組織と理念を事細かに実例を挙げて紹介している点が異なる。貧富の差を感じさせないように、社員食堂を作り皆同じものを食べるようにしたり、女性の社会進出を促すべく、工場内に保育所、幼稚園を設置するなど、今見ても相当理想主義的かつ先進的。星一らしいネタとしては社内に近代的歯科医院の設置(野口の恩師との関係によるものと推察)や、入社に際して半強制的な保証書ではなく、自発的意思に基づく「協力書」と呼ぶ一種の宣言書を父母、兄弟、妻、子供に提出させるというものがある。書き方の例もちゃんと載ってる。仕事に打ち込むには家族の協力が必要ということはわかるが、子供の書いた宣誓書を大人と同一に扱うところが星一らしくてほほえましい。
(33)星製薬株式会社社報 第八十九号(大正10年9月15日発行)
星製薬社報としては最もメジャーな品で星薬科大学史にも記載有り。商業学校設立の許可がおりた喜びを素直に語ったっている。しかし、この後、入試のトラブルによる校長の辞任、学生達が他の学校に転席してしまい7人しか残らない、国家試験免除の取り消しなど苦難の道が続くこととなる。星は担当の役所をすっ飛ばして、後藤新平や伊藤など国家の中枢に近い人に直接働きかける事が多いうえ、自分が正しいと思ったことは役所への「根回し無し」に必ずやり遂げようとする為、規則重視型の人達とは、運命的に対立する関係にある。つーか、もっと根回ししようよ・・。
(34)ドイツと日本-国際文化交流論 小塩節著 講談社学術文庫
著者のドイツ体験を元に日本とドイツとの政府、草の根レベルでの交流史をまとめたもの。第一次大戦後の交流例として3人ものノーベル賞受賞者を輩出した星基金(Hoshi-Ausschuss)が取上げられる。星の業績が戦後忘れ去られた理由として、①基金の資料が日本とナチスの協力資料と思われ米軍に持ち去られたこと、②協会のトップ「ハーバー博士」がユダヤ人であった為、ナチスにより追放され、その存在を抹消されてしまった事、③非ヨーロッパ諸国、しかも白人以外からの最初の学術資金援助であることを屈辱と思う向きがあった事、などが挙げられている。しかし事実上の破産後も苦労してお金を集めて送っていた星の心意気は、米国から返還された資料により調査が進められていると書かれています。この本が出てから20年近くたちましたが誰か調査報告書いてくれませんかねぇ。
(35)台湾統治と阿片問題 劉明修著 山川出版社
「台湾阿片の関連資料が無いよう・・」と嘆いていたら、袁口さんが進呈してくださいました。いつもすいません。感謝しております~。本書は台湾における阿片使用の歴史、専売性の財政への寄与、中毒者への治療、根絶までをまとめた資料。元は博士論文とのことだが、後藤による漸減政策の成果を評価するなど、広範囲な調査に裏づけされた、偏りの少ない視点で書かれており、読み物としてのレベルも高い。星新一氏の「人民は弱し~」を読んだ事が調査の切っ掛けとのことですが、星製薬阿片事件については「人民は~」より踏み込んだ言及がなされているわけでは無いのが残念。当初、これといった産業基盤を持っていなかった台湾経済が、阿片専売制に大きく依存していたこと、その後、他の産業の発展により阿片専売利益への依存度が数%以下になり、相対的重要度合いが下がったことが数字で示されており、重要。財政面への寄与が漸減していたことを考えると、あえて星製薬の先行利益を確保し続ける政治的メリットが無くなっていたのではないかと感じる。
(36)日本の阿片戦略-隠された国家犯罪 倉橋正直著 共栄書房
日本における阿片栽培、製造、密輸に関して最も簡潔にまとめられている著作。許可を得て大学の屋上で実際にケシの栽培をするほど、気合の入っている著者の意気込みが心地よく、阿片関係で最初に読むには良い本。二反長音蔵による国内の阿片栽培、星製薬阿片事件への言及ももちろんある。和歌山の試験場で続けられていた日本における阿片の栽培が1986年で途絶えたこと、星製薬からモルヒネ等阿片製剤の独占製造件を奪取した製薬会社が今なおその権利を独占的に保持しており、製薬会社と国家との繋がりが切れていないことが記されている。阿片関連では最先端の学者さんのようですので、今後の活躍にも期待してます。
(37)家庭医書(第十三版) 半谷秀高直著 国光印刷株式会社
医書と銘打ってはいるものの、冒頭の妙に大学のレポートチックな「人体解説」を除けば、病気の名称とそれに対応する星製薬製の薬の効果を謳った、一種の広告カタログ。後にはよりビジュアライズされたカタログに変わっていったと考えられる。脚気を伝染性としていたり、梅毒や結核といった抗生物質以外では治療が困難なものもあり、今の感覚から云うと誇大広告の感は無きにしも非ず。とはいえ、当時の一般人の医学知識から考えると、理論的で科学的感はある。大正2年という創業初 期の品の為、星製薬の株式会社化に岩下清周系の人物が多く関わっていることや、当時の主力商品がイヒチオール系のホシチオールだったことなどがわかる。
(38)冷凍製造法の発明-製造界の一代発明 星一著
阿片事件によって事業としては実現できなかった「冷凍製造法」のPR冊子。いつもの星製薬系の小冊子とは異なり、142Pもある上、装丁もよく誤字も少ない。これにかける星の意気込みが感じられる書。技術的には「凍結乾燥(フリーズドライ)」と「凍結濃縮」を他の分野にも応用しようというもの。一見突飛に思えるが、どちらの技術も製薬(特に星製薬の得意としたアルカロイド生成)には必須の、ある意味成熟した技術であり、後に星の攻撃の際に言われたようなインチキ発明ではない。ただ、官憲の妨害は始っており、この本の発行時点で、すでに銀行からの融資は止まりがちである事も伺える。技術開発における星の信条(創造主の直参たれ!)や、米国のフィリピン占領により南洋への発展が事実上不可能となった今、日本は満州に発展の余地を見出さねばならないとする政治信条、エジソンとあったときのエピソード、ドイツへの寄付の内幕など、星一関連書の中では非常に高い価値を持つ品である。
(39)古本探偵の冒険 横田順彌著 学陽書房
昔はハチャメチャSFの作家、今はすっかり明治研究家として定着した感のある横田氏が埋もれた歴史を掘り起こす研究の為の古書収集の快楽と泥沼について「本の雑誌」で連載していたエッセイ集。冒頭の調査過程で情報が発散、暴走していく過程は身につまされるが、これって別に「地獄」じゃないよね。ただ終わりが無いだけで。星一については2箇所で取り上げられており、「三十年後」の実著者が「江見水蔭」だと言うことも、星新一さんから直接聞いたとの事。なるほどねぇ。アーネスト様、情報ありがとうございました~。
(40)努力十年 星製薬株式会社
創立十周年に刊行されたと思われる全70ページに及ぶ星製薬の写真集件社史。文章は冒頭の「星製薬株式会社の本領」のみで、あとはひたすら説明が1行つくだけの写真で埋め尽くされており、星製薬の写真資料としては特筆もの。高かったが中身から考えるとかなりお得か。装丁もモダンでいい感じです。これまで地道に集めてきた「星製薬の絵葉書」関連の写真が網羅されており、嬉しいような切ないような。
(41)善戦善勝 星一著 星製薬株式会社
星が大正13年に大阪の県郡元大会での講演記録他をまとめたもの。一般人向けでなく地方の卸し総括者や販売店店主に星製薬の理念と販売方式を説明しており、直接の利害関係が絡んでいるため内容も詳細で面白い。販売方式の説明(商品の回転周期、広告の作り方、現金取引の奨励)だけでなく、一種のセミナーのような雰囲気や星一を頂点とする極端なピラミッド構造も垣間見える。冷静に読むとかなり無茶も言ってますが、この一種の天皇制のような一極集中組織は当時の世情にはマッチしていたような気もします。また、学生や販売店への開拓販売(訪問販売)の奨励(強制)には、星自身の経験が伺え興味深いです。星製薬の販売システムに興味のある人(いるか?)には、超お奨めです。
(42)ホシ家庭新聞 星製薬株式会社
「善戦善勝」によると星製薬グループの発展には絵と文字による広告が不可欠であり、そのための新たな媒体として大正13年に発行が決定。月1回、発行部数400万部!!を予定しており、配布方式は販売店への買取の強制。おいおい、400万部つーたら売れてたころの少年ジャンプや、読売新聞に匹敵する発行部数だぞ。しかも見本版はかなりしょぼい内容だったらしく「これには私は編集に参加してなかったが、本番はちゃんと目を通すから心配しなくて良い」とかいってます。えーと、この新聞の買取が嫌とか、これを期に脱会したいとかいう奴は親切第一主義の敵とまで言ってるんだから、ちゃんと目を通せよ・・。すでに社報はあるので、なぜ作ったかはいまいち謎。広告はすべて星製薬ものもだが、社報には無い子供や婦人向けのページ(料理、偉人伝等)があり、単純に新聞を発行したかっただけのような気も。サイズは一般的新聞の半分の大きさ。星の発行物には新聞や雑誌が多いのですが、号毎に内容の異なるこれらをどのように紹介すべきか苦慮しているところです。
(43)哲学 日本哲学 星一著 学而会書院
日本哲学だけが星一の主張であとの項目は専門家によってかかれたと思われる書籍。どうせいつもの編集ものだろと馬鹿にしていたが、星一ご自慢の本だけのことはあり、西洋哲学や中国哲学は高校レベルであれば十分なレベルだし、インド哲学に至ってはこれだけ専門的でわかりやすいのは貴重。特にインド哲学の歴史的発展と密教に与えた影響の説明は特筆もの。おいらも初めて印と真言の歴史的関係を把握できました。日本哲学だけはいつもの星トークで、晩年の星が唱えていた「日本はおかあさんが作った国」つーのが主たる主張点。他の箇所の出来が素晴らしいのでちょっと脱力しそうになるが、まぁ、いいたいことはそれなりにわかる。頭山満が日本の敗戦を是としていたエピソードや、新憲法による戦争の放棄を議員として評価しているなど、戦後の星の主張を知りうる重要書籍。巻頭にある文「人類歴史に嘗て無かった「武備の放棄」を憲法と為せし国民のために」が印象的でした。戦後すぐの選挙でトップ当選した星一は、帝国憲法改正案委員会で年長者ゆえの投票管理者という立場にあり、日本憲法制定の委員会の委員の一人でもあります。貴重な本を進呈してくださった、神永さま、本当にありがとうございます~。
(44)無資本で誰にも出来るホシチェーンストア 星製薬株式会社
星製薬特約店としての商売をはじめるうえでの心構えやノウハウを事細かに記した勧誘本。内容は、かなーり実践的かつ実用的。事業を始める上での目的意識の持たせ方と、事業を実現するための教育システムがかなりしっかりしていることが感じられる。主張も明確でおいらの知っている星製薬関連の書籍の中では一番の出来。これなら今でもフランチャイズ店の教育用に使えるとおもいます。また、銀行からの融資が止まったのに対抗する為、星自助バンカーという組織を設立していたことや、星基金に対する独逸国大統領エーベルトからの親書も掲載されてます。あまりにも出来がよいので、いつかデータ化することにしましょう。
(45)星とフォード 京谷大助著 厚生閣
題名のまんま、星一を大量生産による低価格化を断行し、近代工業の礎を築いたフォードに模し、その特異性、将来性を喧伝した本。まぁ提灯本といえば提灯本。星製薬の全盛期であるため、非常に景気の良い話が並んでいる印象。このときにあっても、前書きに暗示されるように、星のことを山師扱いしていた人たちが多くいたことがわかる。功罪も含めて、今でいえば孫正義のような感じか。フォードのエピソードにあわせるため、星の父親を過小評価している嫌いが若干あり。星の父は星のいうところの「一流の地方人」であり、自立心や先見性など大きな影響を与えている点は見逃してしまってはいけません。もちろん、父親というものが母親のように両手をあげて賛美できるような存在でないのは、世の常としても。
(46)陸軍中野学校終戦秘史 畠山清行著 保阪正康編 新潮文庫
昭和20年6月、ソ連を仲介者として米英との講和を少しでも有利な条件で締結せんと行われた、外務省主導の最後の終戦交渉がありました。ソ連大使館が避難していた箱根の強羅ホテルを舞台に、ホテルに隣接する星一の別荘“星山荘”に避難してきている(事になっている)広田弘毅が日本側代表。満州の主権、北洋漁業の漁業権も放棄するという、日本側としては最大限の譲歩でしたが、既にドイツは降伏、ポツダム会議でそれら全ての権利を得られる事になっているソ連としては真面目に取り合うはずも無く、4度の会合を経てもソ連の気を引くには至らず、「広田工作」は失敗に終わりました。ともあれ、この工作に星一が関与していた事はまず確実と思われ、主戦論者だった星一もさすがに終盤は、早期終戦工作に奔走していたのだなと感じ入りました。でも、この直後満州に渡ってるんですよねぇ。うーん、このあたりやっぱ謎が多いなぁ。本著は「陸軍中野学校」ものの文庫化第二弾。吉田茂邸に入り込んだ密偵の話、近衛の「国民党政権を相手にせず」が風見章の推奨によるものだったなど、興味深い話も多い良著です。
(47)江戸・東京の中のドイツ ヨーゼフ・クライナー著 安藤勉訳 講談社学術文庫
ドイツ-日本研究所の初代所長も勤めた日本研究家が8年の勤務を終えて、日本を去るにあたり愛する東京に残されている同胞の足跡を伝えるささやかな史跡とその背景について記した本。13章に星一によるドイツ学術援助の背景とその結果が示される。星一の経歴については、「帰国後、製薬会社に入社」とか「東京でこの世を去った」など間違いも見られるが、本著が1996年にかかれたことを思うと十分な内容。星が借金までして約束を果たした基金により、シーボルト「日本」のほぼ完全な初版本がベルリン日本研究所の所有となり、のちのシーボルト研究にも大きく寄与したことが語られている。何より星の壮挙がドイツの人達にも知らされてることがわかっただけでも嬉しい。個人的にはワグネルとヘーンの章が好きです。
(48)東京人-1999年12月号 No.147 都市出版株式会社
「江戸・東京の中のドイツ」に記されている星一の項を「製薬の泰斗-星一、アインシュタイン来日の「衝撃」とベルリン日本研究所設立」の副題で掲載。東京人には全4回(4章分だけ)の連載であったが、最初の章を選ぶに当たって著者のクライナー教授はためらうことなくこの章を選択したという。日本とドイツの交流について日本が一方的にドイツに学んだだけでは無く、人間としての誠意を含む双方向の交流であったこと、そして約束を果たす為に星が払った苛烈なまでの誠意をきちんと見据えてくれている。雑誌自体はちょっと飛行機の機内誌を連想させる当たり障りの無い出来ではあるが、それなりにお金と手間がかかっている感じです。
(49)製造家販売人聯盟大会講演集-昭和3年11月9日 星製薬株式会社
後藤新平子爵、ゾルフ駐日ドイツ大使(帰国後、ベルリン日本研究所の総裁に就任)、望月圭介内務大臣を招いて行われた製造家販売人大会の講演集。製造家とあるのはこの頃「協力村」と呼ぶホシチェーンストアの販売網を利用して、薬とは関係の無い日用雑貨を販売するシステムを構築しようとし、それらの製造家を協力村出席者として招いているから。電化製品も取り扱っているので、生協や今のマツキヨより多岐に渡る商品を取り扱おうとしていた気配がある。阿片事件後であるが、ちょっとだけ持ち直した感じがうかがえる。なお、編集発行人は「星とフォード」の京谷大助氏。
(50)化粧読本-昭和15年4月1日 吉良歌吉著 星製薬株式会社
星製薬化粧品部門の関係者と思われる著者が、欧米視察の検分を加味し、女性の化粧の方法についてまとめた本。香水やオーデコロンの紹介はあるものの、未だ、和服ベースの従来の化粧方法が主で、洋装関連の化粧法の記載はほとんど無し。時代的には、有害な鉛入りの白粉から亜鉛ベースの白粉への移行が進んでいる模様。著者はどう考えてもオッサンのようだが、化粧の歴史や成分、実際の方法まで実に真面目にまとめてあり、なかなか大変な仕事と思う。イラストも多い労作だが、これを実際に女性が見てどう思ったかについて、聞いてみたいものです。
(51)アマゾン賛歌 島袋盛徳著 沖縄文教出版社
南米ペルーに新天地を求めて渡り事業に成功した著者は、戦争による日本人への圧迫と善意で始めた学校経営の苦闘により財産を失い、1958年、齢60にして新たな成功を求めて家族の下を離れ、牧場経営の為アマゾンの奥地へと向かう。旅の途中にあるティンゴ・マリヤの町は、ツルマーヨにある30万町歩に及ぶ旧星製薬所有地と幹線道路をつなぐ分岐点の町。星製薬の故沢田正穂氏によって始められたお茶の栽培を契機としたお茶の産地として知られ、ペルー全土の60%のお茶を生産する。ツルマーヨの土地は星一の死後は在留日本人の有志で構成されたツルマーヨ開発会社が発足したとのこと。ツルマーヨの土地については、さらに情報がほしいところですね。
(52)写真植字機と共に三十八年 森沢信夫著 KKモリサワ写真植字製作所
二十世紀の印刷の発展を支えた写真植字。活字を使うことなくレンズで文字の大きさを自在に拡大縮小でき、グラビアとの組み合わせも容易な画期的印刷技術の実用化は日本人の手によってなされました。その基本特許者にして写真植字機の父が本書の著者森沢信夫氏。氏が印刷機に触れるきっかけとなったのは大正12年に入社した星製薬。会社で購入した輪転印刷機の組み立てを任されたことから、写真植字のアイデアを得、最初の研究資金、給与での厚遇と励まし、さらに最初の写植機模型の制作費も星がポケットマネーから出しています。森沢氏は星一を「先生」と呼び、「このように、先生は物心ともに親身も及ばぬお世話を下さり、ただただ感激あるのみで、その人物の偉大さにはひたすら胸に迫るものを感じたのである。」と最大級の謝辞を送っています。森沢氏も逆境の中にあっても写植機の完成こそわが天命!と信じ、逆境や裏切りの中にあっても印刷界のエジソンやライト兄弟たらんとの情熱を常に抱いて生きてきた、まさに星一の精神を受け継いだ人物の一人。我々が目にしてきた種々の印刷物の背後にも星とその弟子の情熱が潜んでいたのですね。
(53)星同窓会員名簿 大正拾五年三月調
大正10年から始まった薬業講習会の受講者及び、同11年に設立された星製薬商業学校(現在の星薬科大学の前身)の卒業者による同窓会員の名簿。薬業講習会の受講者をも包括しているところが面白い。マツキヨの社長さんが載って無いかなぁと思って入手しましたが、これには載ってませんでした。残念~。大正15年といえば、経営的にはかなり厳しくなっている時ですが、正直、星一の名で出している著作などより、ずっとしっかりした作りの冊子となってます。本同窓会組織の後裔で有る星薬科大学同窓会は同然ながらバリバリ活動中です。
(54)低温工業株式会社欽定 附設立趣意書、目論見書
星一に取って米国での出版事業、帰国後の製薬業と並んで精魂を注ぎ込みながら阿片事件の混乱によって事業化されること無く潰えた「低温工業株式会社」の欽定及び設立趣意書。資本金五千万円の星製薬とは別に同じく資本金五千万円の低温工業KKを設立し、創立後、すぐに両者を合併させる事が記されており、新規事業というより星製薬に取って事実上の増資を図っているように感じられる。星一関連の資料では、この低温工業関連の印刷物が非常に多くあり、宣伝にかなりのお金をつぎ込んでますので、その真意が知りたいところです。
(55)ふるさと塾-地域を学ぶ小さな旅 黒沢賢一編 歴史春秋出版
星一の故郷で学習塾を営む黒沢氏が受験勉強を離れた塾生達の交流と学習を目的として、子供達自身が直接調査に赴き、発掘してきた故郷のエピソードをまとめた著。三章で誰だか知らないけど公民館に胸像が有る(笑)、いわき市錦町出身の人物、隠れた偉人として星一が取り上げられている。調査の過程でこれまで何とも思っていなかった場所に、歴史の重みやその地に生きた古人の熱い思いが潜んでいたことに気づいていく子供達の姿と、彼らの成長を温かく見守る著者の目線が心地よい本です。
(56)明治の冒険科学者達-新天地・台湾にかけた夢 柳本通彦著 新潮新書
日清戦争により新たに日本の領土となった台湾に野心と探究心を持って乗り込み、図らずも栄達を得る事無く、学問上の業績のみを残して忘れ去られた3人の学徒の生涯を深い思い入れを持って描いた著。2人目として台湾に現在の恒春熱帯植物園を開き、発展に努めた熱帯植物学者“田代安定”が取り上げられている。鹿児島出身でロシア留学経験も有る熱帯植物学者であった田代は定年退官後、大正10年8月から同15年7月まで星製薬に雇われ、台湾でのキナの栽培に奔走している。日本領土内でのキニーネの自給は田代に取っても若い頃からの夢であった。最晩年の星が最後の夢をかけたキニーネ事業は、偶然上手く行ったのでは無く、当時考えうる最良の熱帯植物学者を登用するなど、周到な準備がその背景にあった事がわかる。
(57)夢野久作著作集5-近世快人伝 夢野久作著、西原和海編 葦書房
内田良平からの聞き語りの体裁をとった「日韓合併思い出話」の中に、内田が杉山茂丸の画策で伊藤博文率いる朝鮮総督府の嘱託となり、年来の目的である“日韓合邦”の為、李容九率いる一進会の動きに注目していたところ、同じく伊藤の個人秘書のような地位で総督府の仕事をしていた星一から「(日韓合邦のためには)一進会は君の手に握ってしまわなければ駄目だ。」という忠告をされ、我が意を得たりと喜び、時事について色々論じ合った事が記されている。総督府勤め時代(明治38~9年頃か)の星が茂丸の影響もあってか、合邦運動に一見識が有り、かなり積極的に関わっていたと思われる貴重な記載である。
(58)成人大学-昭和3年8月15日発行 星製薬宣伝部
表紙だけ見るとなんだか訳わかりませんが、内容は“ホシ家庭新聞“の雑誌版というか、当時の雑誌”現代”を連想させるような、政治、経済、科学、読み物を網羅した総合雑誌。編集責任者はこれまた“星とフォード“の大谷京助氏。一応、星製薬の宣伝部発行となっているが、星製薬の広告は基本的に裏表紙のみ。やっぱ、星一はこういった雑誌を作るのが本質的に好きなのだなぁと改めて思った次第です。
(59)週刊朝日 第七巻第十一号 大正14年4月12日発行 朝日新聞社
大阪朝日新聞社専売会での後藤新平と星一の講演を掲載した号。なぜか、子爵で星の兄貴分でもある後藤新平より星の講演記録が前にページ数や写真も多い形で取り上げられている。これは、実際に新聞売り子の経験を持ち、当時飛ぶ鳥を落す勢いであった星一の講演の方が、読者受けすると考えたからであろうか。ちなみに講演依頼者は二人の知友であり、官界から朝日新聞社入りした下村海南(宏)専務。実際の講 演内容は星一節炸裂といった感じで中々楽しい。また、かつて朝日新聞社主筆であり、恩師でもあった高橋健三氏を、古本行商を兼ねた日本縦断の旅に訪ねた若き日の貴重な写真も掲載されている。
(60)故野口博士母堂 昭和3年6月29日
昭和3年5月21日にアクラにて息を引き取った野口英世の死を悼むべく、同年6月29日に日本工業倶楽部にて故野口博士追悼会が行われた。その席にて配布すべく、竹馬会(英世の地元有志らによる後援会)の依頼を受け、英世の恩師“小林栄”氏が準備していた原稿を基に、星一が部下に妙録と印刷を指示して完成させた小冊子。星一の後記を含む。最初に発行された野口博士の母堂の伝記として、また星一と野口英世の交友を知る上でも貴重か。大体、日本工業倶楽部でやってるの自体が星一関連っぽい様に思います。
(61)ホシチェーンストア 星製薬株式会社
星製薬の進める協力に基づくチェーンストア方式とホシ協力村のシステムについてこれまで数十年間培ってきた実績と自信を元に、チェーンへの加入を勧める小冊子。社内または関係者に配布する使用の為か発行年が記載されていないが、内容から鑑みて昭和の発行。ホシチェーンストアへの実際の加入方法、決済方法、協力村のシステムと加入方法などが詳細に記されている。“星自助バンカー“はこれまで信用金庫のような組織かと思っていたが、星製薬及びホシ協力村関連商品をチェーンストアが購入する時に最大2割まで使用可能な組織内通貨「ホシ協力商品券」の運用、管理を行う組織である事がわかった。なるほど、自助バンカーの名称は機能そのままなわけですね。
(62)赤手空拳-奮闘より成功へ 通俗教育普及会編 通俗教育普及会
貧困から身を起こして、奮闘努力の末に社会的地位を築いた人物達を取り上げ、当時(大正14年発行)の青年達を叱咤激励する目的で作られた著。いわば「西国立志編」の大正版ともいうべき、かなりの大著。野口英世らと共に古本の行商から「楽天」と「親切第一」で製薬王となった人物として星一が取り上げられている。現在も名の残る人物は1割くらいで、高文試験に合格しただけのような「まだ成功者じゃないだろ」と思わせるような人物も多いが、克己心に溢れる当時の社会世情が感じられて中々楽しい本です。
(63)百魔続編 其日庵杉山茂丸著 大日本雄弁会講談社
星一も登場する「百魔」の続編。中村精七郎の項に星製薬の社債券を知人に進めて回っている星の書生(茂丸から見れば孫弟子)が登場。星製薬の信用を危ぶむ会社重役に向かって、星が毎朝4時に起きてその日の計画をたて、日中は社員を指揮し、自らも東西奔走し、寝る前に翌日の計画を立てて始めて床に入る生活をずっと続けており、邸宅も道楽も持たず会社の為に働いている事を語る。その薫陶を受けた自分達が同じく自ら星製薬の商品を売るべく働いて償却するのであるから、これほど確かな保証は無く、例え星先生が死んでも会社は私たちが決して潰しませぬ、と断言する。茂丸はこの一書生の覚悟に感服同意しており、任務斷行委員等、星製薬の苦境を支えた人々の心意気と星一による薫陶、教育の成果を伝える。
(64)活動原理 星一著 学而会
初版発行は大正15年。“親切第一”“欧米礼儀作法”“科学的経営の真諦”など、これまでに発行された星一の主要著作11冊をひとまとめにした、星一全集というかベスト盤。今となっては入手困難な作品が一気に読めるのが嬉しい。代表作“親切第一”が大正11年発行後、1年で百刷、15万冊読まれていたことや、開拓販売が訪問販売の事だけを指すわけでは無く、それまでの商圏を超えて事業を拡張する事を奨励する事だったなど、新たに得た知見も多い。星一の著作としては古書で流通している方だと思いますので、見つけた時には即ゲットしましょう。
(65)百年前の二十世紀-明治・大正の未来予測 横田順彌著 筑摩書房
明治・大正時代に新聞や小説に描かれた100年先の未来である20世紀の世相や技術の進歩についての予想をまとめた本。星一著(とされる)“三十年後“も世相のマイナス面をも描く一風変わった未来予想作品として取り上げられている。とはいえ、著者が面白いと思っているレベルまで読者がついてこれているかどうかは、ちょっと疑問。個人的には100年前の未来予想に興味が無いので読むのが結構辛かった。横田さんが頑張っているのはわかるんですがねぇ・・。
(66)わたしの「女工哀史」 高井としを著 草土文化
岐阜、静岡の山中貧しいながらも家族の愛情に包まれて育った著者は、幼くして働きに出た工場で女工としての惨めで希望の無い生活を強制される。吉野作造博士の労働者の自覚と団結を呼びかけるビラを読み、労働者として目覚めて飛び込んだ社会改良運動の中で「女工哀史」の著者細井和喜蔵と出会い結ばれる。肺を病みながらも「女工哀史」の原稿を仕上げることに執念を燃やす夫を女給や工場労働で支える中、五反田の星製薬で働いた思い出が語られる。男は社長(星一)と同じ制服、女性も白の上着と帽子を身につけ、仕事中も会話や明るい歌声の絶えない社風や、お昼は麦飯ではあるがおかずも美味しい食事(費用は会社負担)を社長の星一も一緒にとる平等な雰囲気など、同じ日本の同じ時代(大正14年頃)とは思えない、楽しく女性達が働くことのできる工場の様子が語られています。個人的には著者の戦中戦後の奮闘振りや逆境に負けない著者の心意気が興味深く、読んで元気がもらえる本と思います。ぽっぽさま、タカさま、情報ありがとうございました。
(67)野口英世の妻 飯沼信子著 新人物往来社
これまであまり知られていなかった野口英世の妻メリー・ロレッタ・タージスの生涯について、その家族、英世との夫婦生活、英世の死後の暮らし等、福島県出身米国在住の女性作家が調べた経緯を記した書。苦労話が多く素人っぽい構成だが、著者の調査対象に対する思い入れが感じられる好著。どちらかといえば悪妻として書かれることの多いメリーだが、貧しい炭鉱夫の家に生まれ、やっとの思いで手に入れた市民権を失ってまで英世と結婚している事や、野口の残した遺言状の記載、野口の死後も恩人である小林家と姉の家に戦争によって引き裂かれるまで送金を続けていたといった新事実を積み重ねて、その誠実な人柄を浮かび上がらせていく。メリーは墓碑には刻まれていないが、弟の手で埋葬され、ウッドローンの英世の墓地に一緒に眠っているとの事。星の送金で野口夫妻が買った別荘が当時のままに残っている事がわかり、飯沼さんの紹介で、英世の恩師血脇守之助の系譜を引く東京歯科大学が保存、管理してくれることになったのは星と野口の友情の記念が保存されるわけでもあり、大変喜ばしい
(68)野口英世-知られざる軌跡 山本厚子著 山手書房新社
得意のスペイン語を活かし、これまで野口研究の空白であった南米各地での活躍と野口の妻について調査した書。メリーについては“野口英世の妻“の方が詳しいのでそっちを参照すべきだが、南米関係の調査はなかなか面白い。バブル期に日本政府が野口の名のついた援助金で南米各地に箱物を多く建てていた事や、現地の野口ファン、南米各地に今もある野口の銅像とレリーフなど、死の危険のある地に実際に乗り込んで精力的に働き一定の成果を出す野口の活動と姿勢が現地では高く評価されていた事がわかる。
特筆すべきは、1990年当時、星一の残した薬草園跡ツルマーヨの中心地ティンゴ・マリアが、その風土と歴史的背景から良質のコカの葉が収穫でき、米国等に密輸されるペルー最大の麻薬の産地、ゲリラの根拠地となっており、その事もあって日系一世達が星一の薬草園について口を閉ざし、星製薬のペルーへの進出も記録から消されている理由となっていたとの事。うわーっ、それってすげぇショック!!フジモリ政権下で若干変わったかもしれないが、今はどうなんでしょうか、大変気になります。
(69)選挙大学-選挙教科書 星一著 選挙大学講習会
大正13年に行われた衆議院選挙に政友会の後援を得て出馬した星一は、20日間の選挙戦を選挙大学と銘打った選挙教育を軸として戦ったが、対抗馬である比佐昌平氏に、5106票対3188票と大敗を喫した。その選挙戦の際に用いた“日本青年道徳法典“”選挙大学講義録“の他、”落選演説速記録“など選挙に関連した冊子、講演の記録をまとめた書。星製薬グループの関係者向けに書かれた星一の他の著作と異なり、星の思想を知らない一般の人々に向けて編まれていることもあり、星の思想を丁寧に紹介している。“選挙大学講義録“という名の割には、選挙関連の記載が最後半の章に止まり、他は経済や教育の話に終始しているのが星らしい。複数の冊子をまとめているので、重複する記載も多いが、星の政治信条を知る上では貴重。
(70)吾等の希望 星一著 星製薬株式会社
大正9年の11月、本社楼上にて開催された星製薬株式会社府県元売捌大会の席上における星一の談話をまとめた小冊子。星の談話集の中では比較的初期に位置し、第一次世界大戦後の混乱の中、順調に社業を成長させている自信のうかがえる書。大正9年8月8日に本社工場にて火災があったが、株価にはほとんど影響しなかった事、親切第一稲荷大明神を工場に作ったが、稲荷とついているのは元々そこにお稲荷様があったからといった記載も興味深い。世界がドイツを優秀な科学国と見なしているのはドイツの医薬品が優れている為もあり、星製薬がキニーネ等のアルカロイド薬を海外に輸出しているのは日本の国力、科学力を海外にアピールする“日本文明のプロパガンダーでもある”という発想も星一らしくて良い感じです。
(71)新報知-第五巻第五號五月號(大正三年5月11日発行) 新報知社
星製薬関連中では最初の定期刊行物。社報より小さなサイズで、星製薬のPR色は薄め。内容は後の成人大学に似た体裁で一般雑誌を目指していた模様。ホシ家庭新聞に含まれる児童読み物は無く、大人専用の紙面構成になっている。一部に他紙からの転載もあるようだが、そこは時代か。末尾に「杉山其日庵著青年訓」の広告あり。そっか、星一の会社から出してたんですね。
(72)家庭乃花-第二十四巻七月號(大正三年7月1日発行) 家庭乃花社
当方所有の星製薬関連の定期刊行物としては最も薄い4面(1枚)から構成されている。この家庭乃花の別冊として刊行されたのが星製薬の看板刊行物である社報。後に新報知と共に社報に合併された様子。新報知の一部はホシ家庭新聞にリニューアルされたと考えるのが妥当か。一面は確かに後の社報に似た構成。新報知よりPR色の強い紙面構成の刊行物を作りたかったのでしょうか?しかし、社報よりこっちが先とは思ってもみませんでした。写真が良くないのはあまりにもボロボロでビニールケースから取り出せない為。ご容赦のほどを。
(73)彷書月刊-PR誌の向こう側(2003年7月号) 弘隆社
彷書月刊のPR誌特集号。星薬科大学三澤義和教授による「星製薬幻のPR誌」を掲載。存在は知りながらもこれまで入手していなかったが、先日専門の研究者の方の凄みを思い知らされたこともあってようやく入手。「やっぱ、スゲェよ!」と思い知らされる充実の内容。新報知、家庭乃花、社報、ホシ家庭新聞といった星製薬主要刊行物の経緯が示されており、(71)~(72)が掲載できたのは本文献のおかげである。三澤教授は星一の直弟子である柳浦教授の跡を継いで星一の志と星薬科大学建学精神の継承活動を続けておられます。他の特集としては秋山道男さんへのインタビューがスッゴク面白い。このおじさん、洒脱でちょっと危ない感じもあって女の子にもてるだろうなぁと、うらやましく思いました。(←正直)
(74)家庭医書 第二-ホシチオール ホシロール 星一著 星製薬株式会社
家庭医書の第二弾。表紙に商品名が入っている事でもわかるように、一応、近代医学啓蒙の体裁を持っていた最初の家庭医書と異なり、ホシチオール、ホシロールの効用と使用法について記した純販促冊子。星製薬の創業期を支えたイヒチオール製剤の内、ホシロールが新製剤として医師が使用し、ホシチオールはその売薬版。基本は湿布薬のような炎症緩和薬の様だが、擦り傷、歯痛、はては目薬代わりにも使用できると記されている。うーん、虫歯と目に使うのはかなりイヤ。
(75)アントニン・レーモンドの建築 三沢浩著 鹿島出版界
チェコに生まれ、プラーグの工科大学で建築学を学んだレーモンドは、貨物船に乗って密入国したアメリカで妻となる女性と巡り会う。妻の友人からフランク・ロイド・ライトを紹介されたレーモンドは、帝国ホテル設計に着手していたライトに乞われ、設計助手として1919年12月31日、運命の地である日本に辿り着く。44年間を日本で過ごし、日本近代建築の父と謳われるレーモンドの生涯を彼の弟子で自伝の翻訳者でもある著者が綴ったのが本著。レーモンド戦前の代表作の一つが星薬科大学講堂であり、正面はライトによる帝国ホテルの影響が強く見受けられるが、背面は事務所内で「表現派」と呼んでいたライト式とは全く印象の異なる「チェコ・キュビズム」の様式を取り入れているとの事。ライトの影響を強く受けていたレーモンドが自然と融和した日本古来の建築と生活の中から、自らの設計思想をつかみ取り、代表作である群馬音楽センターの建設に至るまでを、戦時中に米軍の依頼を受け、焼夷弾性能試験用日本家屋の建設に協力した件で受けた批判も含め、丁寧にたどっている。
(76)現代日本建築家全集1-アントニン・レーモンド 三一書房
他の巻に彼の弟子が多く登場する為か、全26巻の現代日本建築家全集の第一巻がレーモンド。75)では一つの建物に対し1~3枚程度の小さな写真しかなかったが、本著では代表的作品については内部構造や設計図を含む大判の写真が多数掲載されており、併せて読むとレイモンド設計の変遷をより深く理解することが出来る。ここまで来たら、星一との出会いの書かれているレーモンドの「自伝」が欲しいところです。
(77)新報知(家庭乃花)-第十二巻第十二号(大正10年12月号) 新報知社
「新報知」と「家庭乃花」が合併し、B5サイズ24ページ(表紙、広告除く)の雑誌形態となった版。本号には星一による「借金格」という記事が掲載されているが、号によっては星一の文章が掲載されていない号もある。この辺りが「社報」や「ホシ家庭新聞」と異なる所か。広告が星製薬の品のみである事を除けば、「趣味実益豊富なる記事満載の手頃な雑誌」という編集後記の弁が目指す所を良く表していると言ってよいかと思う。大正11年12月号では、裏表紙に「クリスマスプレゼントとしてホシのクスリを贈りましょう」というかなり無茶な広告あり。いや、それ、子供絶対泣くから。
(78)星製薬株式会社創立三十周年記念寫眞帖(昭和15年11月13日発行) 星製薬株式会社
昭和15年の星製薬創立三十周年記念大会にあわせて発行された写真帳。創立十周年目の写真帳である「努力十年」はイケイケの頃であり、ある種の脳天気さが伺えたが、本写真帳には阿片事件、強制和議成立など、その後に経験してきた苦闘の跡をも記録している。会社規模の縮小や戦争に向かう時代背景もあり、写真帳自体の華やかさも低減してはいるが、貴重な記録と思う。晩年の杉山茂丸ら星一の後援者達の写真が増えているのがうれしい。
(79)吾等の知れる後藤新平伯 三井邦太郎編 東洋協会
後藤新平の逝去三ヶ月後に東洋協会が中心となって発行した追悼文集。58名の縁者の一人として星一の「後藤伯のこと」が含まれている。後藤伯は大胆かつ細心の人であり、その成功は阿川、安場両恩師とお母さんの薫陶によるものとしている。正直、ありきたりな追悼文の印象。本書では娘婿である鶴見祐輔氏の文章が文体、内容とも突出の出来。「あれだけ敏感な、あれだけ聡明な人が、かうしていつも明るく快活に暮らすためには、随分とはげしい内面的闘いをしてゐたであらうと私は思ふ。」とか「彼は恐らくは、彼に親炙したる人々の胸のうちに、非常に天分の豊かな、人間的情味の溢れた、懐かしい人間として永久に生きてゆくであろうとおもいひ且つ祈る。」など、踏み込みの深さも特筆で、なるほど名文家と言われるだけのことはあるなと感心しました。星一は後藤新平から大きな影響を受け、生き方やスタイルを含めて、自分もこうありたい人物として憧れていたのだろうなぁと、しみじみ思いました。
(80)亜米利加の薬店 大塚浩一著 (星製薬株式会社)
「星の組織と其事業」の編者でもある著者が大正14年に約4ヶ月間行った米国視察行の記録。“実業の日本“、”薬業週報“に載せた「亜米利加の薬店」「商売より見たる最近の亜米利加」からなる。詰まるところ、時代はチェーンストア方式でなければ成り立たないと言うのが趣旨。実際の視察報告書を見ると、星一がホシチェーンストアを作るにあたり、“レキソール”、“リゲット”など米国の大手チェーンの手法をよく学び、自らのカリスマ化を含め、上手くアレンジして導入いたことがわかる。
(81) 経営と販売-広告研究雑誌(婦人号)大正7年拾月号
星一による「製薬業と女工」を収録。星製薬が女工と呼ばれた女性社員達の福利厚生に関して、当時としては相当好条件であった事は“私の「女工哀史」”などにも実体験として描かれているが、その背景にある経営者としての思想を掲載した雑誌。1日8時間労働(普通は10時間以上)、製造個数に依らない完全時間給、従業員全員での帝劇観覧、勤続2年以上への記念品贈与、保養所である箱根星山荘での避暑の実施など、「精神の満足と、心的自由と慰安がなければ、充分其の能率を発揮することが出来ぬ。」という星の信条に基づく良好な労働環境が語られている。さすがに現代の視点から見れば、女工を男性社員と同等に取り扱っているとは言い難いが、これが「女工哀史」が書かれた7年も前であることを思うと、その先進性に驚かざるを得ない。
(82) 星新一-1001話をつくった人 最相葉月著 新潮社
戦後日本の子供達にとって“本を読む楽しみ“を最初に知る契機となっている作家星新一氏の本格的な評伝。遺品の整理も行った、ご親族からの信頼も厚い著者がしっかり調べて書いているだけ有って充実の内容。前半1/4は星一伝といってよいが、結婚の経緯、結構以前に内縁関係にあった女性や星新一氏の異母兄のこと、甘粕との間を取り持ったのが根岸寛一ではないかということや、ツルマヨの土地が放棄された背景など、これまで謎だった件もきっちり紹介。茂丸や頭山満、内田良平、広田ら玄洋社、大日本生産党といった筑前の国家主義者らとの関係についてあまり詳しくないのかなと思う位で、“星薬科大学八十年史“以降ではもっとも充実した星一本。このページ読んでる位なら、速攻この本買いなさい(笑)。
個人的には星新一さんに思い入れのある人だと後半1/4が読んでいて辛いかなぁと感じましたが、これだけ力量のある著者に評伝を書いて貰えるってのは、星家にとっても喜ばしいことなのではと思います。ここまできたら星一の評伝も書いて貰いたいのが人情ですが、著者が、その必要性を感じるかどうかは微妙なところでしょうか。まじ、星一ファンは必読ですよ。
(83) 贋薬鋻法-付贋薬鋻法 蘭ゲルベルト撰、石黒恒太郎(忠悳)訳 大正11年復刻版
軍医総監を勤めた日本医学界の重鎮、石黒忠悳子爵が明治2年に出した著作の復刻版。当時、輸入された西洋薬品の中には贋の薬が混ざっていることが間々あり、対策としての薬品の簡易判別法を列記した著。大正11年2月23日に星製薬商業学校第五回講習会修業證書授与式に臨席した石黒子爵の講話で本書の存在を知った星一が薬品の品質管理の重要性と分析法のPRもかねて復刻版を刊行。石黒子爵は、医学界における星一の有力な後援者の一人であり、最相さんは星一と小金井精が結婚した背景にも、石黒子爵の意志(好意)が働いていたのではないかと推察している。
(84) 売薬読本 市川八郎著 星製薬株式会社
「ホシ」の「クスリ」を中心として「病」を語り、「薬」を語り、日本国民の持たねばならぬ「保険常識」を盛り込む意図で昭和9年に発行された星製薬のPR本。一般人に向けた平明な記載を主としている為、一部医学的には正確と言いかねる記載もあるが、著者は医師ではないようなので仕方無しか。巻末に“星製薬株式会社製品一覧表“を含む。冒頭の序言が星一社長個人に当てた内容であるなど、任務断行期成団団員でもある著者ら(=社内の星一派)の気風が感じられる。なお、発行者は当時星製薬の大番頭であった日村豊蔵氏。
(85) 無益の手数を省く秘訣(大正5年1月25日初版) 池田藤四郎著 実業之世界社
選挙大学に星一立候補時の応援演説者として壇上に挙がるなど、星一のブレーンの一人と考えられる池田藤四郎氏の著作。内容は“能力調査技師“と呼ばれる工場経営改善コンサルト業の業務内容を、職工から身を興して有能な能力調査技師となった太郎青年の視点で描き、日々の工場業務と経営の中にいかに多くの改善点があるかと言うことを啓蒙している。星一の言う、“科学的経営”の理論的根拠の一つとしてみると興味深い。大正2年、実業之世界社発行だが、当方所有の品は装丁がいつもの星製薬小冊子と同じ仕様で贈呈印と星製薬関連薬局の蔵書印有り。“星製薬ルート”でもある程度の数を捌いたのではないかと推察する。
(86)東京模範百商店-実業界(大正3年1月1日発行、第8巻第2号)新年増刊 同文館
“新式経営法にて成効せる商店の解剖”の副題がつけられた、当時の経済雑誌の増刊号。各産業の代表的企業、商店100店を分野別に取り上げた中、当時日本最大の製薬会社だった三共と共に“米国式経営法をとれる星製薬株式会社”が取り上げられている。広告利用の巧みさと問屋を廃した“製造所から直接小売人へ“の方式、それに伴う商品価格の低廉化と利益を商品開発費に振り当てやすいシステムが評価されている。京橋の本社ビルもまだ建設中の段階で、星製薬最盛期の10年も前だが、当時からすでに経済誌に着目されていた点は興味深い。
(87) 奮闘活歴-裸一貫から(大正13年6月初版) 実業之日本社
貧困から身を興し、主として商業界で活躍中の人物を16名取り上げ、その“裸一貫“からの奮闘史を志ある青年達の奮発材料として供した書。“十五年間に資本金を十餘萬倍にした星一氏”として、星一を取り上げている。記載はまぁ、いつもの立志伝風で、特筆する様な内容ではないですが、会社は全盛期、本人も五十を超えたばかりの働き盛りですし、他の人達と比べてもその急成長ぶりが目立ちます。大正13年6月に初版発行、昭和4年で第31刷なので、当時は結構売れた本だったんじゃないでしょうか。
(88) 明治・父・アメリカ 星新一著 新潮文庫
長い間事実上の絶版(オンデマンド出版のみ)だった星一関連文書のバイブルが星新一氏の没後10年&作家デビュー50年を記念して復刊!新潮社もようやく、この宝の山に気がついたか。表紙も星一一家の集合写真に変更。星一が着てるのはスーツじゃなく星式制服ですな。新たに追加された解説は資生堂の社長、名誉会長を歴任した福原義春氏。チェーンストア形式や文化、出版活動への協賛など多くの影響を星製薬から受けたと言われる大企業を祖父から継承し、損なうことなく立派に発展させてきた人物であり、星家とも親族関係にあるとのこと。そう考えれば人選としては悪くない。それにしても、目出度い、目出度い。
(89)国府田敬三郎伝 エドワード・K・国府田編
サンフランシスコで客死した星一の最後を長女の鳩子さんと共に看取り、遺言状の立会人にもなった日系人社会の大立て者、国府田敬三郎氏の伝記。星一の同郷福島県いわき市の出身で、師範学校卒業後、24才の若さで小学校の校長になるも、渡米の念止みがたく教育視察の名目でアメリカに入国。労働者、缶詰工場経営などを経て、稲作に着手。幾多の失敗を経て、米国での大規模稲作に必要な、籾の乾燥設備(ドライヤー)の使用と、苗床を廃し飛行機を用いて空から直接籾を撒く大胆な手法を開発。彼の考案した飛行機を用いた農法は後に農薬散布など他の農業分野でも用いられる方法となる。事業が軌道に乗った矢先に太平洋戦争により強制収容所に送られ、州による農園の不法な接収やパートナーの裏切りといった逆境にあうが、戦後も事業を継続拡大し “ライスキング”と呼ばれた。戦後は特に日本人一世らの米国帰化を可能とする法案成立に、マイク正岡らの後援者とて尽力、法案成立を勝ち取った。なるほど、米国における星一の協力者ではあるが、ある意味、星一よりスケールの大きい人物ですな。
(90)プロレス専門誌Gスピリッツ-Vol.02 タツミムック
廃刊となった週刊ゴングの残党組が始めたプロレス月刊誌。白黒ページの特集に“プロレス界のコンデ・コマヒロ・マツダの波乱に満ちた生涯“を掲載。海外に憧れた野球少年小島泰弘はテレビで見たプロレスに海外に行けると直感を感じ日本プロレスへ。五輪金メダリスト笹原正三のいる中央大学レスリング部、日本拳法の山田辰雄ら超一流に真剣勝負を学んだが、封建的上下関係を嫌い“いつかこの手で力道山を倒す“との宿願を抱いて海外脱出を図る。行き先はペルー。そこには星製薬の保有する薬草栽培所の責任者として親類の沢田正穂が居た。ペルーからメキシコを経て念願の米国入り。最初の日本人プロレスラー“ソラキチ・マツダ”から数えて三代目に当たる“ヒロ・マツダ”を襲名。当時NWAジュニア王座に君臨していたダニー・ホッジ(レスリングでメルボルン五輪銀メダリスト、ボクシングでも全米ゴールデングローブ・ヘビー級チャンピオンという超人。ルー・テーズ、カール・ゴッチと並び称される強者)に勝つため、カール・ゴッチの門を叩き、関節技や投げ技を学ぶ。1964年11月ホッジを倒し、NWAJr.世界チャンピオンとなる。その後、ホッジにベルトを奪い返されたものの、最近のインタビューにおいてホッジは「私が戦った中で一番強かったのはヒロ・マツダだ。」とマツダの強さをたたえている。後にレスラーの育成にも着手し、マツダの大ファンだった元ロックギターリスト上がりのハルク・ホーガンなど多くのスター選手を排出している。シューズを履かず常に素足なのは、日本の武道は基本的に素足だからという真剣勝負の心意気を示しているとのこと。しかし、ヒロ・マツダ氏と沢田氏を介してハルク・ホーガンと星一が繋がってるってのは、凄いなーと思った次第です。
(91)資料による不正競争防止法制定史 富田徹男編 株式会社学術選書
工業所有制度百年の記念を受けて、特許庁の“特許研究史”に掲載された論文と現在は閲覧に多大の労力を有する関東大震災前や戦前の不正競争防止法関連資料や判例を復刻した研究冊子。戦前の判例として「ホシ胃腸薬と二星胃腸薬」(仮処分決定許可、昭和12年12月27日:星製薬側の勝ち)、「アカカン胃腸薬とホシ胃腸薬」(仮処分申請事件、却下、昭和13年3月14日:星製薬側の負け)が記されている。どちらも、債務者である和田増太郎が株式会社大阪製薬所にてホシ胃腸薬とまったく同じ成分の薬を類似のパッケージにて販売しようとしたものだが、パッケージの意匠の類似性の差異から、片や勝訴、片や敗訴と判決が分かれているのが興味深い。二星胃腸薬のそっくり具合はアーカイブ参照のこと。(元々は星胃腸薬の名で販売しようとしていたこともわかる。)ここまできたらアカカン胃腸薬も入手したいなぁ。
(92)黑白(昭和二年二月號、第百十二號) 黑白発行所
杉山茂丸の機関誌の性格を持つ雑誌“黑白”。本号では東京毎日新聞の鈴木明氏による“ミスター・ホシ”を掲載。鈴木氏の発案で調査部という部署を設けた際、初日に星一の元に部員を送りこんだ所、その趣旨に至極賛成の意を示し、その場で特別賛助会員になって弐百円の小切手を振り込んでくれたことが、調査部大発展の切っ掛けとなったことを、星一の先見性と親切心を表す事例として記している。なお、黑白発行当初は星一率いる星製薬が黑白の重要な広告主として裏表紙とかにバーンと一面広告を挙げていたが、昭和2年の本号には広告の掲載はない。本記事はある意味、窮地に立っている星一への援護射撃的な記事と見ることもできるか。
(93)星新一 空想工房へようこそ 最相葉月監修 新潮社
「星新一-1001話をつくった人」を豊富な写真資料で補完する、ビジュアルで楽しむ星新一の世界と言った趣の本。生家跡や箱根の別荘、ご家族や弟子筋に当たる方々の書き下ろし、星新一の創作の奥義「要素分解共鳴結合」の代表作での実施例など、興味深い内容を多く含む。箱根にある親切第一稲荷の跡もちらりと写っています。なお、次女の星マリナさんの手によるショートショート作品の英訳が進められているとのこと。
(94)陸軍大将小磯国昭閣下御講話 星一編(昭和15年12月16日発行)
昭和15年、皇紀二千六百年奉祝、会社創立三十周年記念大会にて星商業学校記念講堂にて行われた小磯国昭による教育勅語の意義についての講話を記録した物。創立三十周年記念寫眞帖と同時期の作品。本講話の議題が教育勅語なのは、福島県生まれの書家千葉靑藍氏が大正9年に作成した教育勅語の拓本を皇紀二千六百年、教育勅語渙発五十周年を記念し、全国家庭に頒布することとした為。実際には、拓本の掛け軸と本小冊子、“教育勅語頒布の意義“と題した一紙との3点セットで、先ず星商業学校関係者に配られたものと考える。教育勅語軸も所持しているが、本小冊子を入手するまでは星一と教育勅語の関係がわかっていなかった為、謎が解けたときは大変嬉しかったが、今にして思うとそんなに喜ぶほどのことでもないな。
(95)自己発見 星一著 星製薬商業学校(大正12年11月15日発行)
関東大震災直後の復興期に発行された星一の著作。大震災は未曾有の大災害ではあったが、これにより金持ちも成金も貧乏人も同じくバラック住まいの人となり、同じく復旧に奔走、奮闘せねばならぬ身の上となった。いわばマラソン競技で同じスタートラインに立ったとも言える。ここで、大事なのは金でも商品でもなく自己発見である、大いに考え、大いに働き、大いに富を作りなさいと読者を鼓舞している。後半はいつもの親切第一と科学的経営法の抜粋。本社の被害が最小限で済んだとはいえ、震災直後にこの種の小冊子をタイムリーに発行できるのが当時の星一の真骨頂か。
(96)お茶の話 星製薬株式会社 静岡製茶工場
星製薬が新たに販売を開始した「ホシのお茶」販売促進のために制作された小冊子。大正12年度の各県毎の製茶産高を記してあることから大正13~14年に発行されたと考える。御茶屋や問屋を介した販売経路を星製薬が直接製茶と販売を行うことで流通コストを抑え、上等煎茶、普通煎茶、ほうじ茶の3種に統合することで煩雑な銘柄からの選定を廃し、大量生産によるコストダウンを実現したとしている。パッケージは、お茶の香りを維持する為にハンダ不使用とし、ビタミンの破壊を防ぐため本邦初の真空製缶を導入。また、各自が家庭で焙じていたほうじ茶を専用機で品質良く大量生産することに成功したとしている。あえて旧来の産地である宇治ではなく、当時日本の製茶の半分近くを占めていた新産地の静岡に工場を建てた経緯も詳細に説明。
(97)親切第一 星一著 新報知社(大正10年2月10日初版発行、大正10年6月15日35版)
星一イズムの根幹とも言うべき“親切第一主義”について記した星一の代表的著作とされる本。探し始めて8年目にしてようやく入手。まぁ、内容は“活動原理”に全部転載されているわけだが。(苦笑)最後半の植民地主義に関する言質を除けば、現在でも十分に通用する内容じゃないでしょうか。最初に持ち主が表紙に書き込みをしているが、“星先生”とか“我慢”といった星一イズムを感じさせる内容で逆に嬉しい。
(98)哲理商事経営学 星一著 星製薬商業学校(大正13年1月1日初版発行)
星製薬商業学校で教科書として使っていたと思われる本。内容は、まぁいつもの星一流経営学だが、話の脱線が少なく、箇条書きで要領よくまとまっているのが特徴か。所有者の書き込みから鑑みて、授業の時には本書に書かれている以外の副教材を併用していたと思われる。
(99)遠い句近い句-わが愛句鑑賞 金子兜太著 富士見書房
戦後を代表する前衛俳人の一人である著者は水戸高校の先輩であった出沢珊太郎に導かれて俳句を作り始める事となった。著者の青春を回想する“遠い句”では「星新一-1001話をつくった人」により星一の庶子、星新一氏の異母兄である事が知られた出沢珊太郎こと出澤三太を描くのが目的の一つでもある為、行動力と才気に溢れ、自由な心を持った先輩として生き生きと描かれている。著者の愛唱する珊太郎の句として“白墨一筋堀に低かり母現(あ)れよ”が取り上げられており、当時、若くして年長者に才能を認められており、また経済的には何不自由ない身の上でありながらも、それでいてかぎりなく淋しがりやで本能の美しい人と評する著者の珊太郎への深い思い入れが伺える。
(100)太陽-第五巻第五号、六号(明治32年3月5日、3月20日発行) 東京博文館
海外事情、思潮のページに星一が翻訳したコロンビア大学メイヨ・スミス教授の著作抜粋“統計の標準”を2号にわたって掲載している。「明治・父・アメリカ」によるとスミス教授は星の指導教官であり星に眼をかけてくれていた人物と記されている。明治32年当時の星はコロンビア大学学生であるが、前年から雇い主であるステキニー夫人の協力を得て、日本の雑誌の文章を米国の通信社に翻訳して売る仕事を始めている。最初に翻訳したのが同じ雑誌太陽に連載された康有為の論文とされているが、何らかのコネクションを用いて、日本の雑誌にも米国の記事を売り込んでいた模様。内容は雑文ではなく、恩師の著作から日本ではあまり知られていない新しい科学的手法(これは星の好きな言葉だが)である統計学の有効性と運用時の基本的注意点について解説したもの。太陽は当時の出版界の頂点に君臨していた博文館の看板雑誌なので、お金が目的というより自らが学んでいる内容を故国の有識者達や郷里の人達(父喜三太や友人ら)に伝えようとしていたように思える。当方の知る限り活字になった星の最初の文章だが、文字の読めない星の母もこの雑誌を手にとって、異国に暮らす息子が体を壊すこと無く学問の研鑽を積んでいることを喜んだのではなかろうか。
(101)米国の個人主義-機会均等、社会奉仕 フーヴァー氏著、星一訳 新報知社 (大正12年9月1日発行)
米国の商務長官ハーバート・フーヴァー氏の著作“American Individualism”を日銀総裁であった井上準之助からもらった星一が翻訳し、著者の許可を取っていないので非売品の形ではあるが原著と同じ体裁でかなりお金をかけ製本している。米国の社会構成と発展の根幹である個人主義を旧来の社会規範による拘束の多いヨーロッパの個人主義とは別物と主張し、この新しい米国型個人主義を発展させていく先に、米国の更なる繁栄があると主張している。序を井上に書いてもらっている点からも井上に捧げる意味合いがあったと考えるが、内容も星一の思想に合致するところが多く、翻訳書ではあるが、米国で学んだ星の志向を端的に表しているとも取れる。訳文はやや硬直だが慣れればそれほど悪くないかと。
(102)俳句と知性 堀徹著 堀徹遺稿刊行会 (昭和36年12月1日発行)
昭和23年に喉頭結核により夭折した国文学者、詩人評論家堀徹の論文と俳句を友人達が取りまとめ、堀の年表と親族、友人らによる追憶を加えて故人の13回忌に刊行した遺稿集。同じく中村草田男門下であり、学校の後輩でもあり、戦地に赴く際に自らの句集を堀に託したことのある出沢珊太郎、金子兜太らが追悼文を寄稿している。中村草田男に心酔しながらも、その透徹した知性と一途な熱情から彼の下を去って、学者の道で中村を越えんと孤軍奮闘していた堀を悼む出沢らによる追悼文の質の高さは特筆もの。明晰で繊細だが病弱で依怙地で世俗の幸せに恵まれたとは言いがたかった堀と、同じように繊細だが精気にあふれた熱血漢である出沢との対比も興味深い。
(103)戦旗第三巻第十四号(昭和5年8月号) 戦旗社
左翼系雑誌“戦旗”の山口五郎氏による「星製薬争議はなぜ敗れたか」を掲載した号。前号には「星製薬争議は必ず勝つぞ」という記事が掲載されていた模様。山師星一によって500人の兄弟姉妹(社員)が解雇されたことへの抗議として同年の5月31日から6月25日まで続き、7月7日に解団式を行った争議の経緯が争議団側の視点で記されている。最終的に政治判断として、三万円の退職手当を受け取る事で争議を収束させた労農党幹部の手緩さを敗北として糾弾しているが、左派陣営も会社が左前で星製薬に金が無い事は承知しており、ある意味闘争のための闘争な感は否めない。製薬業が不調に陥っている星製薬が××省の後ろ盾をうけて毒ガスを製造を開始したとか、阿片を製造して支那に輸出しているなど、当時、左派陣営から星がどのように叩かれていたかを知る上では貴重な資料かと。
(104)最新ワクシン及血清療法 星製薬株式会社細菌部著(大正7年3月28日発行)
第一次大戦においてワクチン療法が病気の予防と治療に大きな成果を上げた事を例に上げ、歴史的には種痘に始まり、当時の細菌学の発達によって、医学を変貌させつつあったワクチン療法のメカニズムと星製薬細菌部で製造している各種ワクチンの使用方法を紹介した書。素人向けではなく、薬剤師、医師等の専門家に向けて作成したものと思われる。製造しているワクチンの種類の多さからも、当時の星製薬が最新の医薬品を大量に生産できる規模と能力を誇っていた事が伺える。
(105)日本公論第12巻第1号(大正13年1月1日発行)東京日本公論社
碧峯生による“弐圓の資本で古本行商からマスター・オブ・アーツ 又た四百円の借金で遂に世界の製薬王となる”を掲載。表紙には“大枚二圓の資本で世界的製薬王”とあるが、弐円は当時でも大枚じゃないよな。まだ阿片事件で会社が傾く前なうえ、雑誌の裏表紙も星製薬の広告なので、当然では有るが悪く言うような事は書いてない。父親の紹介に始まり、渡米前の古本行商での日本縦断、米国で働きながら学んだ苦労などが書かれている。比較的初期の経歴紹介のためか、“明治、父、アメリカ“で紹介されている、現在主流のストーリーとは話の細部が微妙に異なっているところが興味深い。
(106)財界百人物 谷親男編 日本公論社(昭和3年9月15日発行)
日本公論創刊15周年を記念して、日本公論に毎号数編が掲載されていた“財界百人物”を一冊にまとめたもの。非売品の記念本の為か、昭和3年の書籍では有るが和綴じのような体裁となっている。星一の項目では、まさに昭和になってからの近況を取り上げ、阿片事件によって会社が急速に傾いた事、阿片事件自体が官憲による政治的謀略を背景に持つ事など、かつての広告主だった事もあってか、ほぼ星の主張に沿った好意的な論調となっている。
(107)社債所有者株主諸君に重ねてお願い申上げます 星製薬株式会社
和議成立後に発行された小冊子。冒頭で“皆さんに何とも申訳のない事を致しました、それは正に切腹問題でありました。“という謝罪から始まり、阿片問題に端を発した株価下落と社債の価値低下を謝し、和議条件に基づき百円の社債も、初年度1円、次年度2円といったペースでしか返却できなくなった事を説明している。しかし、その直後、社債所有者、株主に社債を星製薬の商品券に有利な条件で変換するので、ホシチェーンストアの一員になって薬を売れば返却ペースを上げる事が出来ると持ちかけている。「おいおい、まだ信者にそんな要求するのかよ!」と驚愕するが、小冊子を読み進めていくと、「なるほどそっちの方が徳かも知れん・・。」と思わせるのが星一の凄い所か。ある意味、星一が全然へこたれていない事がわかる内容となっている。
(108)星の組織と其事業 星製薬株式会社
昭和3年11月3日以降(多分昭和4年)に発行された“星の組織と其事業”の改訂版。サイズは一回り小さくなっており、基本構成は踏襲しているが、阿片事件で会社の信頼が損なわれて以降の奮闘が追記されている。低温工業株式会社に関しては第三章の資本の項目ではっきりと増資目的で新会社を設立したと記載されている。星の株主は小口が多いため、単純に増資を行えば追加の払い込みができず、株を手放さざるを得ない人がでる。それを避けるために新会社を設立し、その後星製薬に対等合併する事で、結果的に株主と資本を倍に増やすという方法をとっていたが、阿片事件により、低温工業株式会社は1500万円の四分の一の払込を持って漸く会社を設立させる事は出来たが、合併による増資は実行できなかったとの事。長年の謎が一つ解けてすっきりした気分です。この手法自体、法には触れないものの普通はやらないグレーゾーンの手法のようです。他にも成人大学が新発行を予定している雑誌の見本誌であった事など、新情報も多く貴重な本と思います。
(109)星の製品-組織と事業 ホシのカタログ(昭和14年3月10日発行) 東京星製薬株式会社
昭和14年に発行された星製薬の商品カタログ。前半1/3が昭和14年版の“星の組織と其事業“に相当し、後半2/3が”ホシの製品“の構成になっている。阿片事件やそれに続く労働争議、会社乗っ取り等により大打撃を受けたものの、強制和議成立、商標権問題の勝訴など再建の途についた星製薬の事業と商品を出来るだけ多くの人に知って頂き且つ共鳴していただくのが本 書発行の意図との事。阿片事件から強制和議成立までの過程が要領よくまとめられているの が特徴。カタログの内容は、日用品、食品関連が増えているものの、医薬品は15年前のカ タログと大差が無く、製薬会社としての開発力の低下がそこはかとなく感じられる。
(110) 親切第一 星一著 星製薬商業学校(大正12年2月10日101版)
探し続けてちょうど10年。ようやく古書にて親切第一を入手。101版では発行が新報知社から星製薬商業学校に変更になり、好評を得て100版、15万部を発行した事を記した内容に序文が変わっている。また、表紙の紙質がいつものザラ紙になり、表紙裏に親切第一神社、裏表紙に近く竣工予定の星製薬学校記念大講堂の写真が掲載されている。
(111) 自国を知れ進歩と協力 星一著 星製薬商業学校(昭和8年6月15日初版、昭和8年6月30日三刷発行)
これまで星が唱えてきた、親切第一、協力一致、家庭主義、進歩主義といった主張を当時の流行ともいえる日本を神国として特別視する思想に適応させる形で再構成した感じの書。大嘗祭とヨーロッパ王家の即位を図版で比較するなど力も入ってる。この本と組になる絵葉書を以前から持ってたので、あぁ、これとリンクしてたのかと納得した次第。いきなりこれを読むとちょっとあれだが、基本的に言ってることは変わって無いので、まぁ、何とか付いていけるかなって感じ。事業を出産と比較している所も当時の星の主張の傾向。日本らしさの一つに森林との共生を挙げている所が奇しくも龍丸さんと同じ主張で、個人的には興味深かったです。
(112) 大法輪 第三十巻第十一号 (昭和38年11月1日発行)
蒔田耕三氏の“現代語仏教聖典と私-星一氏の企画が挫折した思い出”を掲載している。複雑多岐な仏教経典をキリスト教の口語訳新約聖書のように誰にでも読みやすいB6版の小冊子にまとめて、優美な挿絵をつければ、星チェーンストアーを介して10万部は売れるという、星一の計画の執筆者となり、苦心惨憺の末に原稿を仕上げたものの、発刊にはいたらず、原稿が戦火により灰塵と帰した経緯を記してある。最初に星と会ったのが日比谷の山水楼であったとのことなので、昭和4~10年の間の出来事らしい。なかなか仕事をしない執筆者に会社が傾いてるのに、数年間にわたりかなりの金額を支給し続けているなど、星一名義の著作の製作過程がよくわかる資料。金菊の会に招かれた様子も興味深く、会の記念品としてペルーの星農園で作ったキナのステッキが贈られたとのこと。
(113)毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者 宮田親平著 朝日選書
空中窒素固定法によって空気からアンモニアを合成し世界の食糧生産を激変させたフリッツ・ハーバーの伝記。第一次世界大戦時の毒ガス研究としても有名で、当方の世代では栄光なき天才たちで描かれた押しの強い天才科学者のイメージだった。しかし、本書では理知的なだけでなく、面倒見がよくマネージメントにも優れた組織運営者だったのが意外だった。星基金の関連で星一との交流も描かれている。毒ガスの父として来日時に陸海軍技術者に空中窒素固定法だけでなく、毒ガスについても講義し、のちに弟子を星製薬の社員として送り込んで日本の軍事用毒ガス開発を成功させたことが星一の伝記(努力と信念の世界人-星一評伝)に記されていたことを特筆して取り上げている。日本の毒ガス研究史上重要な内容だが、記載内容は星一からの聞き書きによるものであり信憑性が高いと考えられるものの、裏付け資料が見つからなかったとのことで、ちょっと説得力が弱いのが残念。単に科学者の伝記とし読んでも、情報量、読みやすさともに非常に出来の良い作品です。
(114) 写植に生きる 森澤信夫 沢田玩治著 株式会社モリサワ発行
写真植字機による活字印刷がコンピューターによる組判に置き換えられ、歴史的な役割を終えようとしていた平成12年に写真植字機の発明者でもあり、
生涯を写真植字機に捧げてきた森澤信夫氏の生涯を記録することで写真植字の歴史自体を残そうと出版された書。 日本工業新聞の連載記事を元に写真植字の歴史や写真を多く追加、掲載している。尋常小学校卒業の経歴しか持たない製麺業手伝いの青年に才気を感じ、
社長付きの特別待遇で雇い入れ、輪転機組立の厳命から写真植字機の開発に至る道筋をつけた人生の恩人として星一が大きく取り上げられている。
森澤氏からの聞き書きがベースにあることを思うと、分量や内容から見ても、90歳を超えた森澤氏の生涯変わらぬ星一への敬意と感謝の念が強く伝わってくる。戦後の 平凡社の躍進の背景に、効率化の為、百科事典のすべてを写真植字機で作るという英断があったことも興味深かった。
巻頭に記された星新一さんによる「本文によせて」では写真植字を生み出す揺りかごとなった大正12年の星製薬に満ちていた新進の気風が記されている。
文末の”さぞかし父も喜んでいるでしょう。”の一言が胸にしみます。
(115)HOSHI CROWN LIQUORS
当時の日本で余り馴染みがなかった洋酒(リキュール)のうち、ホシクラウンシリーズで販売しているウイスキー、ジン、アブサン、ベルモット、キュラソーなど16種類について、その由来や歴史、飲み方などを紹介している小冊子。単なるお酒としてではなく、リキュールが僧院で薬用目的として発祥したことを紹介したうえで、滋養薬、消化補助薬、腹痛止めや睡眠補助薬んど薬効についての記載が多いのが特徴。歴史的背景の紹介などは今でも小ネタとして通用しそう。発行者や制作年月日等の記載は全くないが、冊子の体裁や活字の組み方、文体などからして、星製薬が制作したと考えられる。
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(116)ホシチェーン読本 第一輯 星製薬株式会社 ホシ家庭新聞社発行 昭和14年3月1日発行
昭和14年1月20日に星商業で行われた全国支部長会議において任務断行賞を授与された東京市チェーン田路義一氏による感謝の辞をまとめた小冊子。良い紙質の表紙のついた従来の星製薬の小冊子と比べるとかなり紙質も診察も綺麗な品だが、星一の推薦文以外は1店のチェーン店主に過ぎない田路氏の体験記のみという大胆な構成。田路氏が5000部のホシ家庭新聞を自費購入し、販促のために配っているとのことから、販売店へのホシ家庭新聞の購入奨励が制作目的の一つと考える。田路氏自身は星製薬商業学校にて2週間の講習を受けただけだが、星一の認識では学校の同窓生扱いな点も興味深い。
(117)海程 第2巻第8号(昭和38年6月7日発行) 金子兜太編 出沢三太発行
金子兜太を編集にいだき戦後の俳句界で大きな影響力を持った俳句同人誌。本号には星一の息子で、星新一さんの異母兄である出沢三太氏の句「亡父の白髪翔びてむらさき丘昏るる」が掲載されている。ここで言う亡父は10年以上前に亡くなっている星一のことか。養父である出沢氏の可能性もありますが。自句と巻末の投稿選集である鈴懸集の選者名義は俳号の出沢珊太郎。選者としての論評は結構厳しめで、真摯な性格が感じられる。今回気が付いたが、そもそも海程の発行者が出沢三太さんご自身。金子兜太氏を俳句の世界に導いた先輩として、本同人誌への尽力が伺える。また、すでに三太氏が星書房を始めていることもわかり、興味深い。
(118)芝義太郎ー幸運を手綱した男の物語 木下博民著 創風社出版
阿片事件後の混乱に乗じて星製薬の重役を引き抜いて大阪製薬所を設立し、星製薬乗っ取りを企んだ人物として「人民は弱し~」に容赦なく実名を挙げられている”芝義太郎”の伝記。「人民~」では街の金融業社のごとく描かれているが、実際は北海道の雄別で炭礦と鉄道の開発に従事後、三菱に譲渡することで350万円(2006年換算で160億円以上)の個人資産を持ち、大手国産輪転機メーカー東京機械製作所の社長を務めた実業家。裸一貫で三菱系の鉱山職員から成り上がった芝と、雄別の山を当初共同開発し、後に芝に譲渡したのは内田良平。いや、内田さん、あなた芝義太郎から星製薬を守る運動の協力者してたけど、芝義太郎とは知り合いとかのレベルじゃないじゃん!芝氏の事務所も星製薬のある京橋ですし、星製薬の危機にいきなり湧いてでた人物ではなく、元々地元の経営者仲間ですよね、この人。本書によると星製薬関係者では柏木末次郎氏と都並伊佐市氏が東京機械製作所の役員になってるので、この人たちが乗っ取り(彼らからすると独立)の計画者で、芝義太郎はこれを機に星一に貸してた資金の回収を図った彼らの金主(スポンサー)だったように思えます。ただ、ちょっと謎なのは比較的見切りの早い、損得勘定のしっかりした芝義太郎が、星製薬と星胃腸薬の商標の関係でがっつり裁判をした所。星一側の「明治の人物史」でも取り上げられた大物、花井卓蔵弁護士に対し、芝側は東京裁判で有名な清瀬一郎弁護士(後の衆議院議長)。いや、ガチ過ぎだろ、この人選。星一と芝義太郎では”経営者”としての重きを置く箇所が「ビジョンを示す人」と「資金を確実に回す人」とで違いすぎ、その辺、お互いを理解し合えない所があったように思います。星一からみると相手は「金儲けだけの男」でしょうし、芝からみると「夢想家で経営者の資質がない」って感じでしょうか。 著者は芝義太郎の寄付で運営された南豫明倫館の関係者とおもわれ、NEC関連会社の社長を務めた人物。引退後、郷土史を主とした著述家に転身されたようですが、調査も文体もしっかりしていて、この手の本としてはかなり安心して読めます。
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(119)三十年後 星一著 新報知社 大正7年4月27日発行
日本でもっとも著名なSF作家である星新一さんの父親が書いた近世最初期のSF作品といわれる書。実際は巻頭に期してあるように、当時の流行作家である江見水蔭氏の筆によるものと考えられる。古書ではあまりでない上に1冊8万円位するので手の出しようがなかったが、破損本とのことで格安で入手できた。古書店の方には抜けているページはわざわざコピーで追補してきただき、感謝しております。巻末に、本書を寄贈された元の所有者の感想が筆書きされているのも安かった要因か。「皆出鱈目也」、「要は星の広告手段に外ならず」と記されていて、当時、星一の影響力範囲外にいた人の反応が伺え、こちらも当方としては逆にありがたかった。熟練作家の手によるものなので、大仰な感はあるが普通に読みやすい。冷静に考えると他に女性が居てまだまだ活動期にあった後藤新平を、奥さんの死を契機に隠遁させるという初期設定がすでにヤバい。落ちはヤリスギな感があるが、江見水蔭氏が自分の仕事を全うしたと考えると、それはそれで面白い。細かなアイデアは星一だが著作物としては江見氏のものと考えると、褒め殺し的な面も含む、意外と皮肉の効いた作品なのかなと思ったりもします。
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